あなたへのメッセージ


2016年12月25日

宣教『神の愛に抱かれて』
ヨハネによる福音書3章16節


聖書箇所


メッセージの要約

今日私たちがいただいた聖書の箇所は短い箇所です。でも聖書の中で一番用いられる箇所ではないかと思います。ルターはこのヨハネによる福音書3章18節を「福音のミニチュア」と言ったのです。いくらでも大きく描ける真理を出来るだけ小さく縮小して表現した言葉が、そこにあるのです。ルターはこの聖書箇所について「キリスト者たる者、誰でもしなければならない事がある。まず、この言葉を暗唱すること。」そして
「毎日、自分の心に向かって、これを語り聞かせること。」と言っています。
今日の聖書箇所を、私はこれからもある時は他の誰かがメッセージしているのを聞くでしょうし、自分も誰かに対して語るでしょう。いったいこれから何回この聖書箇所を開くのかと思います。私はこの言葉の持つ豊かさを、まだまだ、千分の一も味わっていない、そのように感じさせられています。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人もほろびないで、永遠の命を得るためである。」
永遠の命というのを不思議に思われるかもしれませんが、この地上にずっと生き続ける意味ではありません。この言葉は神と共にこの地上を、どんな時でも歩いて行ける。神が私たちと共におられる、そういう命を生きるというのが、永遠の命なのです。なぜなら、永遠な方は、神さまお一人だけだからです。神さまと繋がっている。そのことによって、私たちも永遠というのは何か、それぞれが自分の人生を通して味わいさせていただくのです。この聖書箇所はクリスマスの本質を一言で言い表した箇所だと思います。私たちに、神は、その独り子をお与えになったのです。この地上に生きる人間たちがそのしいからではまったくありません。神さまは私たちに自由を与え、神を裏切り、ののしり、神さまから離れる自由をも与えられています。そして実際人間は与えられた自由を、神に逆らうことに使い続けたのです。旧約聖書を読んでいただければ、いったい人間は何度神さまに逆らえば気が済むのかと思わされますが、そういう人間を捨てるという自由をお持ちだったにも拘わらず、神さまは独り子を与えるという決断をもって、人間に応えられたのです。イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る。そこまで言われたのに、そのイエス・キリストに、人間は何をしたのか。「私はあなたを知らない」「殺してしまえ」と叫びました。神さまがこれほど、一方的に愛し、恵をお与えになって下さった。それにも関わらず、人間は受け入れようとはしなかった。それは、二千年前だけに起こった訳ではありません。
皆さんはこの福音に生きておられますか。日々神様から愛されていると実感を思われていますか。私たちの心にあることは、神に愛されているということよりも、人にどう思われているか、自分が何を持っているか。そういう事に尽きるのではないでしょうか。そうして私たちは、小さな自尊心の為に、いつも神に逆らい続けているのです。
人間は与えられた自由をイエスを受け入れることに用いずに、イエス・キリストを十字架にかけて殺したのです。しかし、十字架から復活した後も、イエスさまは「十字架にかけろ」と言った人々の所を周って、痛めつけたりはなさいませんでした。弟子たちはといえば、イエスさまが復活されたと聞いても信じませんでした。逆に怯えて家の中に閉じこもっていました。何故でしょう。私たちは裏切りが何をもたらすか知っているからです。だから、弟子たちも自分たちはイエスさまを裏切ってしまった。復讐されると思いこんで、恐れて家の中に扉という扉にカギをかけて閉じこもっていたのです。そんな弟子たちに、イエスさまは何とおっしゃったかというというと「恐れるな、わたしはあなた方に平安を与える。」だったのです。
私たちは本当に愛されたということを実感している時に、相手の人に対してひねくれた態度で応じるでしょうか。目の前の人が愛を示し、その為にどんな犠牲をはかったかと知った時に、「別に頼んだわけじゃない」と言う人がいるでしょうか。この神の愛を信じた人々が2千年間途絶えることはなかったのです。神は弟子たちを通して、二千年間、許しの言葉を伝え続けてこられた。ですから今日私たちはこの時クリスマスを祝うことができるのです。この地上を見てみると、だんだんと人の心はひからびて、人の言葉が自分の中に入ってこないように、自分の心を閉じている人が増えているのではないでしょうか。
神さまが私たちの為に御子を使わして下さったのです。それほどに、一人も残らず愛されている。目には見えませんが、私たち一人一人が、命を与え、導いて下さる方と共に生きる、それがクリスマスを祝う意味なのです。
教会はクリスマスから一年が始まります。今日、語られた短い御言葉、
「神はその独り子を与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」
この言葉を、一人一人、心の中しっかりと受け止めて、毎日、自分自身に対して語りかけつつ生活していただきたいと思います。その時その言葉を必要としている人が、きっと皆さんの前に現れます。その時その言葉を分かち合っていただきたい。不安や怖れの中に立ちすくんでいる人に、神は皆さんを派遣されるのです。

お祈りいたします。



2016年12月4日

宣教『恐れを超えて』
マルコによる福音書4章35節~41節


聖書箇所

4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたし ちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


メッセージの要約

アドベントの時期に入ったのにクリスマスの記事ではなりなと思われる方がおられるかもしれませんが、神がなぜ御子をお与えになったかを考える時、聖書のどこからでもその意味を見出すことができます。
神がどれほどに私達のことを思い、私達に多くのことを求めておられるのかを学ぶことができます。

さて、35節にはイエス様はその日の夕方になって、「向こう岸に渡ろう」と言われたと書いてあります。
イエスは群衆が押し寄せて来たときから舟にのられて、そこから教えておられたという記事がありますのでそれが夕方まで続いたと思われます。
夕方になり、ガリラヤ湖を横切って向こう岸へ渡ろうと言われました。なぜそう言われたかの理由はかかれていません。向こう岸にはゲラサ人がいました。ゲラサ人は異邦人でした。
群衆をあとに残して船出したのですが、一緒に行こうとして、舟を出した人々もいたようです。
漕ぎ出した時には風もなく無事に向こう岸に着けると思ったことでしょう。ペトロを始めアンデレなど少なくとも4人は漁師がいたわけですから、出発する時点で海があれると思ったなら「もう少し待とう」ということになったはずです。
ところが予想外の展開になりました。漕ぎ出したときにはまったく予想もしていなかった突風が吹き始め、舟は波をかぶって水浸しになるほどになりました。
でもイエスは艫(とも)の方で寝ておられました。漁師が4人もいたわけですから弟子達は舟を操って嵐を乗り切ろうとしたことでしょう。しかし自分の力では嵐を乗り切れないとわかってイエスを起こしました。「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか。」
イエスを信頼してたからそう言ったのではなさそうです。
イエスは起き上がって風をしかり、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみなぎになった。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子達は「いったいこの方はどなたなのだろうか。風や湖さえ従うではないか」と互いに言ったと書かれています。
この言葉は決してイエスさまを賛美して、イエスさまの力のすごさに感動して言ったわけではないですね。
普通なら、「いやぁー怖かったー、嵐がやんで本当に良かったあ」と言って手を取りあって喜ぶ光景が思い浮かびますが、しかし実際は、イエスさまに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」としかられていましたね。
弟子達はイエスさまを信頼して起こしたのではなかったのです。
私たちも時々こんなことがありませんか。
「なんで私ばかりこんな目にあわないといけないの!」といいたくなることが。
弟子達は腹を立てていたのです。
「イエスさま、私がこんな目にあってるのに、無視しないでもいいじゃないですか!」と言いたくなることありますよね。弟子たちの心にあったのはそういうイエスさまへの怒りでした。
弟子達は風がおさまって口に出したかどうかわかりませんが、「良かった。死ぬかと思った」と行き残ったことに安堵したことでしょう。
それまでの経験から弟子達は《イエスという方》をわかっていると思っていたけれど、この時自分が本当は何もわかっていなかったということに気づいたのです。そして嵐を静めるほどの方がそこにいることに恐れおののきました。

ここはイエスさまが突風を静めたというお話ですが、中にはこういう奇跡をどう理解しならいいかわからないと言う人もおられるでしょう。
イエスがなぜこのような業をされたか、そのことにどんな意味があるかを考えないで奇跡というだけで退けてしまったら、私達は決して聖書を読んだことにはなりません。
また、イエスさまがすごい人だったのだなとだけ思ったらこれも聖書を読んだことにはなりません。
「もし私が弟子達だったら、あの時どうすればよかったか」と考えることが大事です。

ある人は「そこにイエスが共におられるのだから私達も眠っていればよかったんじゃないか」と言われる人がおられるかもしれません。でもそんなことありませんよね。
私達が自分の人生の中でもしほんとに困ったときには、誰もがイエスさまの名前を呼んで、なんとかしてくださいとイエスに祈るでしょう。
でも祈ったからといって問題がすぐ解決することは少ないです。何十年も祈ってきたという人もおられるでしょう。そして何十年祈ってきても答えがないということもままあるのではないですか。
では私達はどうすればいいのでしょうか。
私達が弟子達だったらどうすればいいのでしょうか。
それは、入ってくる水を力の限り掻き出し続けることでしょう。自分ができることを力の限りすることだと思います。でも時々信仰をもっていても、自分自身が信じられなくなって、自分自身の信仰を嘆いたりするのです。私もそうでした。そうやって疑いまどう中で、自分に求められていることから段々と手を引いて行ったりするのです。

ある方が本の中で紹介してくださっていたエピソードが耳について離れません。
ある修道院の若手のシスターが年長の指導する立場にあるシスターに次のように問うたそうです。
「私は本当に自分が神を愛しているかどうかわかりません」と。
するとその年長のシスターは厳しい口調でこう答えたそうです。
「愛しているかどうかそれを問うているのはあなたでしょう。あなたがすべきことはそのように自分に問い続けることではなく、ひたすらに愛し抜くことです」と。
私達はどうしても頭で考えてしまう。そして結論が出たらしようと思っているんじゃないでしょうか。
でも愛することは神が私達に下さった仕事であります。私達に神は「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とおっしゃっているのです。私達になすべきことは、そこに神の配慮と愛があることを信じて、自分に今求められていることを成し続けることなのです。そして自分を忘れるほどに専心したときに、自分という殻が破れて、本当に神がおられること、神が私達に何を求めておられるのかを知るのです。

皆さん、バプテスマを受けられた時に全てがわかってバプテスマを受けられましたか?
そんなことはないでしょう。自分が本当に神を愛しているのか、神が私のために命を捨てられたと言われても本当にそうなのかな?と思われつつバプテスマを受けられたかもしれません。
でもそれでいいのです。そうやって踏み出すこと、わからなくてもまず神の方に一歩を踏み出すことで、そして神を信頼する歩みを続けていく中で、私達は聖書の中に記されている神の奥義に少しずつ触れさせられていくのです。それ以外に神の真理に到達する道はないのです。どんな解説書を読んでも、私達が自分の置かれている試練の中で神を信頼して、自分を忘れるほどに自分にできることを懸命にやっていく、自分ができるかできないかはわきに置いて、とにかく神を信じて取り組んでいくこと、それ以外に私達にできることはないし、求められていることもないのです。

YMCAで高校生に聖書を教えているのですが、クリスマスのことを語ったあとに、一人の生徒が私のところに来てこう言いました。
「イエスがこの世に誕生するのにとても苦労したということはわかった。でも神もイエスも覚悟してこの世に来たんですよね。だから苦労して人間の辛さをわかったと言っても、それには覚悟があったんですよね。でも、この世の中には自分がこのような状況の中に生まれてくることを覚悟して引き受けて生まれてくる人なんていません。だから出発点が違うと思います。覚悟して生まれてこられたイエスと、何もわからずにこの世に放り出された私たちとでは・・・。私も覚悟して生まれてきたわけではない。だから自分はつい逃げたくなるのです。俺が望んだわけじゃないから・・・・と。」と。
この生徒さんの感じておられるような問いが、多くの人の中にあってその人のやる気をそいでいます。
自分は生まれたくて生まれたんじゃない。あの人と自分とがあまりにも違いすぎるのは不公平だ。そこで立ち止まっている人がどれほど多いことでしょう。

皆さんもこの問の答えを生活の中で求めていってほしいですが、
この生徒さんがそういうには、きっと自分も何かの苦しみの中にあって、その問いの答えを求めているのだと思います。

神はすべての人を同じには造られませんでした。確かに皆平等ではありません。
戦禍の中に生まれた人もいれば、何不自由ない中に生まれた人もいます。
むしろその違いの中でその運命を引き受けて、自分が成すべきことをしていくことが、神が本当に私達に求めておられる仕事だと思います。

私の叔母の話ですが、この叔母には4人の障がい者の子がいます。
一人はろうあ者、二人は知的障害、あと一人は身動きすらできません。叔母は苦労をさんざんしてきました。でもその叔母から私は愚痴を聞いたことがありません。
顔は柔和だし、苦労しているようには見えないのです。叔母はクリスチャンではありませんが、叔母はそこが自分の生きる場所と心得ているかのように生きています。
その叔母を見て私は自分はなんて楽なところに自分を置いているのだろうかと思います。
ちょっと問題を抱えると、なんで自分はこうなんだろう、あの人のようでないんだろうとつぶやくのです。そして自分が・・・、自分が・・・、自分が・・・と自分の中でぐるぐる回り続けています。問うているのも私、答えを見つけようとしているのも私、私、私。私から一歩も出ようとしないのです。
しかし聖書は何といっているかというと、「わたし(イエス)を信じなさい」と言うのです。
だから「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われているのです。
この信じるということは、私達がこの答えも出せす、うじうじしている自分を、神の御手にゆだねる、そして私にできることから始めていくということですよね。
弟子達はそのことを全うできていなかったのでイエスさまからしかられたのです。

皆さんも人生を振り返ってみるとありませんか、答えのでない問の前に留まることをやめて、分からないけどイエスを信じて一歩を踏み出す。すると不思議な形で助けが与えられたということが・・・。私たちがこの日曜日に礼拝を守ることが赦されている。それは決して偶然ではないのです。すでに私たちは沢山のものを神から与えられています。そして沢山のものを神から求められています。
私たちは神から本当に愛されている、だからこそ私たちは愛を神に返したと願うのではないでしょうか。

アドベントを過ごしていく中でこの出来事を思いだして下さい。私達はどういう姿勢でアドベントを過ごしていったらいいのか、み言葉からそれぞれ受けて行ってほしいのです。
イエスは自分という枠にとらわれずそれを超えていきなさいと求めておられます。
そして自分が置かれていることに専心し、自分は神を愛しているのだろうか、あるいは自分は神に愛されているのだろうかと頭の中だけで考えるのではなく、自分から人を愛し、人に仕えていく、そこに専心していく、そこに信仰の喜びダイナミズム(広がり)があります。この奥義を味わってほしいのです。

 

お祈りしましょう。



2016年11月27日

宣教『耳を澄ませて』
マルコによる福音書4章21~25節


聖書箇所

「また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。


メッセージの要約

連盟が関わっている世界伝道の働きがどんなに豊かであるか、今日あらためて女性会の皆さんに教えてもらい、感謝します。
佐々木和幸さんが遣わされてルワンダという国はかつて大量虐殺が起こった国です。昨日まで仲良く暮らしていた二つの部族が、ある日を境にその一方の部族が一方的にもう一歩の部族の人々を虐殺したのです。昨日まで仲良く交わっていた人々が、ある日突然、殺人者として現れたのです。身近にある武器でもって、何十万人の人達が殺されたのです。日本では殺人事件を犯した人は元の所に戻る事はありえません。しかし、ルワンダでは刑期を終えた人々がもともと住んでいた町に戻って行くのです。そこには目の前で自分の家族を奪われた人達がいるのです。その人々にとって再び自分の目の前に家族を殺した者が表れるのです。考えただけで恐ろしいことです。この両者がどうやって一緒に生きて行けるのか。佐々木先生はその人達(被害者・加害者)が、もう一度共に生きて行けるように「和解」の為のプロジェクトを進めておられるのです。国家権力の力をもってしても出来ない事を、気の遠くなるような時間と労力をささげて実現していっているのです。クリスチャンの働きはすごいと思います。どう考えても不可能だと思えることに立ち向かっているのです。シンガポール、インドネシア、においても事情は違えど、様々なひずみが生じてきています。そしてその状況はこれからますます厳しくなって行くと考えられます。そのような中でも、何とか道を探して、小さい出来事でも、助けを待っている人達の所へと、助けを届けようと、知恵を働かせ、祈って働いている人達がいることを、この一週間覚えていただきたい。
世界祈祷週間、この時に、この聖書の箇所が与えられたことに、私は神さまという方は本当に私たちのことをよく知りぬいておられるのだと思いました。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」
ともし火を、今だからこそ、掲げ続けなければならない。恐れて升の下、また後ろに隠すのではなくて、高く掲げるのは、今この時だと、神さまから言われているように思います。このようにイエスさまが言われた背景には、弟子たちが、イエスさまが語り、なさっている事に対して、恐れをいだいたという事があるのです。「あからさまに語ると、今まで平和に暮らしていっていた人達とうまく行かなくなってしまいます。」と、そういう恐れが弟子たちの思いに生じたのです。教わり、諭され、訓練されていても、受けた事を輝かせる事が出来ない弟子たちの恐れが、そこにあったという事なのです。
「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
国外宣教に取り組むということは当たり前ではないのです。これまでもたびたび年次総会で激しい議論がなされてきました。「国外宣教も大事だということは分かる。しかし、国内でも牧師のなり手が少なくなって、教会自体が弱くなっているのに、もっと国内に目を向けて力を注ぐべきではないか。」しかし結論として、連盟はそういう中でも国外伝道の働きを弱めることはなかったのです。なぜそれを選び取ってきたか。私たちの助けを必要としている、そういう世界に目を向けるということが、私たちの中から消えていくことは、福音を捨てるということと同じなのです。その時私たちは強くなるどころか、だんだんと弱っていくことを、教会は知っているからです。だから私たちは耳を閉ざしてはならないのです。
アメリカの次期大統領トランプ氏の掲げる政策はことごとく内向きです。「やせ我慢して、世界の警察官になろうとしなくても良い、自分たちのことを第一に考えておけばよい。」と言っているのです。自分たち以外の国のことはその国の人達にまかせておけばよいというのです。トタンプ氏は長老派のクリスチャンだそうです。長老派とはカルバンの流れをくむ人々ですから、産業革命を推し進めてきた人達です。真面目に一生懸命働くことが神の御心であると信じてきた方たちです。それを非難するのではありませんが、自分たちが良ければそれで良いという安易な考えにかたむくと、結局、最後は自分たちの首をも絞めていく事になるのです。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」…「何を聞いているのかに注意しなさい。あなたがたは自分の秤で計り与えられ、更にたくさん与えられる。」
私たちはそれぞれの秤を持っていると、イエスさまは言っておられます。自分の経験、価値観です。そのような秤でイエスさまが語られる言葉を聞いて行くとしたら、当然受け入れられるものとそうでないものが出てきます。もしも、自分の価値観、経験でもってイエスさまの言葉を受け止めるとしたら、最初は納得したように思えても、だんだんと失望へと変わって行くと、イエスさまは警告しておられるのです。聖書の中には私たちが聞きたくないようなこともたくさん記されているのです。そのようなところを省いて聞きたいことだけ聞くとしたら、私たちは栄養失調になるか、または一部分だけが肥大してしまいバランスのとれた成長はできないでしょう。ですから私たちがどのように何を聞くか、それが大事なことなのです。そして、秤を、自分の中の秤を、自分で作るのではなくて、神さまからその秤を与えられなくてはなりません。そしてその時その秤とは、悔い改めから生じるものであるはずです。イエスさまの宣教の言葉、それは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。私たちが持たなければならない秤とは、私たちが悔い改めて神の国を信じ続けるということなのです。周りがたとえどんなに暗くても、神の国がすでに始まっていて、それは私たちと共にあるということを信じる。信じ続ける。そのような人をこの世界は待っているのです。待ち望んでいると言っても過言ではありません。
種まきのたとえに出てくるやわらかい良い地とは何かといえと、悔い改めてから生じる心です。
私たちは自分の価値観で人、神をも量るのです。自分が悔い改めるのではなくて、他人を悔い改めさせたい。そのような思いで行動しても神の国は広がっていきません。この秤とは、悔い改める心なのです。神の命の中に皆、覚えられ、造られて、この地上に送られました。ですから神はたとえどんな悪人であっても、その人々が滅びる事は決して喜ばれないのです。
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」      エゼキエル書18章23節
神さまというお方は、例え悪人であっても、その死を喜ばれるお方ではないのです。その人が立ち返って生きるようになることを喜ばれる方なのです。
「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を作り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前は死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ。」             エゼキエル書18章31~32節
方向転換して立ち帰りなさいと神さまは今も私たちに叫んでおられるのです。はたして私たちは「立ち帰って、神の命に生きることを喜ぶ」のでしょうか。もしそうなら私たちは、光を升の下には置きません。それを自分の前に高く掲げて歩むのです。


お祈りいたします。

 



2016年11月6日

宣教「神の選びとは」
マルコによる福音書12章13節~19節


聖書箇所

3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。


メッセージの要約

今日の箇所はイエスが弟子を選ばれたところです。
なぜ12人だったのでしょうか?
12というのはユダヤの世界では完全数を表しています。また、この数から思い浮かぶのは旧約聖書の創世記に登場するアブラハムの孫ヤコブの12人の子ども達の子孫が形成していった12部族です。しかし、各部族から一人ずつを選ばれたわけではありません。
大切なことはイエスは宣教をされるに当たって助け手を必要とされたということです。
それは天地創造の業に似ているかもしれません。聖書の神は父、子、聖霊として既に完全な交わりの中におられたのです。神は寂しいから人間を造られたわけではありません。なぜかは分かりませんが、人間と共にやっていきたいと思われたのです。それは神が愛そのものの方だからです。愛は自分のとろこに留まらず外に出ていくものだからです。
そしてその際、神は人間をロボットのようには造られず、人間に完全な自由を与えられました。それはつまり、人間が与えられた自由を神に歯向うことに用いることをも認められたということです。
現に最初の人間アダムとエバからして、神に逆らったのです。しかしそれから人間に何度裏切られても神は人間を諦めたりなさいませんでした。
人間の助けなど借りずとも、御自分で何でもできたであろう方があえて12人を立てられたのです。

12人の中には漁師や人々に裏切り物とみなされていた取税人をしていたものもいました。さらには国粋主義的な思想集団の人までいたのです。
「なぜそんな人を選ばれたのか」と不思議に思うのですが、その人々が選ばれた理由は、ただイエスがこれと思う人だったとしかいえないのです。
イエスがそれほどに見込まれたのだから、それぞれに何か特技とか才能があったのだろうと思いたい
のですが、例えば意志が強いとか、弁舌が立つとか、頭がよくお金の計算が早いとか・・・。しかし、それは私たちの憶測にすぎません。なぜ彼らが選ばれたのかはよくわからないのです。
さらに、19節には、「それにイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」という言葉があります。
もし教会の中でそんな重大な裏切り行為をした人がでたら、普通はそんな人は除名されるでしょう。しかしイスカリオテのユダの名は聖書から消し去られることはなかったのです。
なせそんな人物までもイエスは選ばれたのか?
その答えも記されてはいません。しかし、主はこのユダをお選びになったのです。
またこの12人はみんな仲良しと言う訳にはいかなかったと思われます。
マタイという人物はマタイによる福音書を書いた人と言われていますが、取税人でした。取税人とはローマへの税金を同胞から集める仕事をしていた人で、ローマの手先と見られていました。税金の額は決められていましたが、いくら手数料を取るかはその人次第でしたから、儲けようと思えば上乗せする額を多くすれば良かったのです。だから取税人にはローマの犬とみなされて一般大衆から憎しみの対象となっていたのです。
それに対して熱心党のシモン、彼はある思想集団に所属していました。反体制派の集団です。時には暴力を使って対抗していたと思われます。そんなシモンはきっとマタイを許せなかったでしょう。
イエス抜きに出会っていたら二人は争いあっただろと思います。
また最後の晩餐の記事には弟子達は「この中で誰が一番偉いだろうか」などと話し合っていたと書かれていますから、使徒といえども、この集団の中には緊張関係があったことは間違いありません。
考えてみると教会も同じではないでしょうか。どちらも単なる仲良しの集まりではないし、完全にはほど遠いように思います。しかしイエスさまはこのような人々に宣教の業を委ねられたのです。
弱く貧しい者が神の宣教の業を果たすのですから、当然いろんな過ちを犯すことになったのです。しかしそれでも、神はこの時間のかかる面倒くさい方法を敢えて選ばれたのです。

弟子達は使徒と呼ばれていました。使徒とはおつかいということです。
使徒の勤めの第一は、イエスのそばに置くためです。
皆さん、礼拝に行くことを迷うことってありませんか。そんな時はあれこれ考えないでとりあえず礼拝に行ったがいいのです。それが私達にとって最も大事なことです。
私たちの手が冷たいと思ったらイエスさまは暖めたいと思っておられます。
私たちの内に迷いが生じると、それはやがて不安感や、わだかまりが高まっていき、ついには他者との間のきしみとなって表れてきます。
そして往々にして私たちは自分だけでそれを解決しようとするのです。そして自分で迷路に嵌りこんでしまうのです。だから、とにかく、何を置いてもイエスのところに行くのです。礼拝に出るのです。
皆さん、時計が壊れたらどこに持っていきますか。果物屋には持っていかないですよね。
私たちもいろんな出来事で時に傷つき、時には深い闇の中に一人置かれているように感じる時もあるのではないでしょうか。そんなとき私たちはどこへ行くのがよいのでしょう。私たちのことを造って、私たちのことを私たち以上に一番よく知ってくださっている方のところに行くのがいいとは思われませんか。

弟子のつとめの第2は派遣して宣教をさせるためです。
イエスさまがマルコの1章の15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたように福音を宣教するということです。
どのような暗い時代でも神の時は始まっていることを言い続けること、神は私達と共にいて下さることを言い続けることです。

第3の勤めは悪霊を追い出す権能を持たせるためでした。
すごいなと思われるでしょうか。それともちょっと怖いなと思われるでしょうか。悪霊を追い出すことそのものはイエスさまがされることです。私達はそのお手伝いをするだけです。霊を私達がどうにかできることはないのです。悪霊ならなおさらです。ではなぜこのようなことを言われたのでしょうか。
皆さん、イエスさまを信じてからなんとなく変わったと人から言われたことがあるのではないでしょうか。
例えば、以前ならとっくに放り投げているところを細々であってもそれに関わり続けている自分がいる、自分の課題(病気、挫折)があって追い詰められてもなんとかなる、神さまがなんとかして下さると思える、これが悪霊を追い出す力だと私には思えるのです。
楽観主義になれと言っているのではなく、神は私達に最善のことをしてくださり、神は私達のことを愛してくださる、だから諦めない、どんなことにも関わり続けていく、それが悪霊を追い出す力でもあるのです。
自分の気に食わないと人に当たったり、自分で自分を傷つけるのではなく、イエスさまがそばにいてくださるから、私はあきらめない、これが悪霊を追い出す力だと思うのです。
私たちがそのように生きることで神さまは私達にきっと素敵なことをしてくださる、自分の思っていないような業を神は私達を通してしてくださる。それがこの使徒たちに与えられた力でありました。

イエスさまはこれと思われて12人を選ばれましたが、結末がどうなるかはイエスさまもご存じではなかったのです。ユダの裏切りもイエスさまは最初からそれを知っておられて選ばれたのではないと思います。
しかしこの弟子達を選ばれた時にイエスさまは覚悟だけはされただろうと思います。その後弟子達は全員イエスを裏切りました。イエスは弟子たちが自分のしたことを悔いて許しを乞う前に、十字架上で彼らのために執り成しをされたのです。
イエスさまはどんなことになろうとも弟子達を見放すつもりはなかったし、どんな弟子を選んだとしても自らの命を投げ出す覚悟をして選ばれたということは確かだと思います。
そのイエスさまの覚悟が今もすべての教会を生かし続けているのです。
私たちは一人一人違います。考え方、性格も違う。だから時々ギスギスする。でもそういう痛みや悲しみがあるからこそ私達はイエスさまの人間への愛と十字架の出来事を思い返すのです。
もうちょっとまとまりのある優秀な人達が集まれば、お金も集まり、伝道はどんどん推進するだろと思うかもしれません。でもイエスさまは決してそんなことは望まれないのです。高貴な者を辱めるために貧しい者を選ばれるイエスさまですから。
私たちはそのイエスさまに選ばれたということを信頼して、自分にできることをイエスさまに返していくだけです。祈りもそう、礼拝もそう、お金だってそうです。すべてイエスさまが私たちにゆだねて下さっているのです。だから惜しみなくイエスさまに返していく、それが私達の人生、生き方です。
どんなことがあってもイエスさまのところにまず行きましょう。

先日、泉選也先生の下関教会への牧師就任式がありました。
泉先生は石川姉妹のお孫さんですが、下関教会への召命、受諾、就任に至るまでのことを文章にしておられたものを読みました。その中の一文にはこうありました。
「下関教会は、たとえ無牧師の状態にあったとして、幼稚園の子どもたちや保護者にどうすれば福音を届けることができるのか、そのような教会の使命を自らに与え続けておられました。私は多種多様な教会があって良いのだと思っています。伝道に励む教会、社会奉仕に生きる教会。いずれにしても大事なのは、教会としての使命を持つことだと考えます。以前研修させていただいた伝道所における、ファミリーホームの働きを見てその思いに至りました。幼稚園を持つ教会としての使命、地域に対する使命を掲げて歩んでおられる、あるいは歩もうとされている下関教会の思いに、どうか私も伴わせてください。これら具体的な関わりを通して、共に福音宣教に仕え、御言葉に生きる者でありたいと願っています。」と書かれています。
私が牧師としてこの教会を指導しようというのではない、今ある下関教会の使命に私も伴わせてほしい、イエスの十字架の苦しみを自分も一緒に担っていきたいとおっしゃっておられるのです。
イエスが弟子達を選ぶときに求められたのはそのことでした。共に苦しんでほしいということです。
私たちはそのような者として選ばれてきた者ですから、その使命を自分自身に明確にしてこの一週間を歩んでいきましょう。

 

お祈りします。



2016年10月23日

宣教
使徒言行録9章1~19節


聖書箇所

9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
9:8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
9:9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
9:11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
9:12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
9:13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
9:14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19 食事をして元気を取り戻した。
「うろこの落ちたまなこから見る風景」


メッセージの要約

今日は召天感謝礼拝という事で、召天者のことを覚えつつ、共に主に礼拝を奉げ、私たちが何処から来て何処へ行くのか。そして、私たちが主にどのように向けていったら良いのかを、ご一緒に御言葉から聞きたいと思っています。石川兄、神野兄、木戸兄、鈴木兄、出崎姉の遺影が会堂の後ろに置かれていますが、それは私たちも、また先に主のもとに召されたあの兄弟姉妹たちも共に礼拝を奉げる者として備えられているからです。この地上を生きている間も亡くなってからも礼拝者であることは変わらないのです。一緒にイエスさまの方を向いて共に礼拝を奉げたいのです。資料に他の方たちの名前が記されていますが、皆、主の御元で、私たちのまだ、見ることが許されない場所でイエスさまと向かいあって礼拝を奉げています。私たちは私たちにもいずれやってくるその日を待ち望みながら、今日この時を、主がくださった御言葉をもって、主に礼拝をするのです。
今日の聖書の箇所はサウロという一人の人の起こった出来事です。良く「奇跡って本当にあるの?」と聞かれます。もし聖書の中の奇跡が作り事であったら、二千年間も教会が続くわけがありません。私は2千年の間騙され続けるほど人間は愚かではないと思います。逆に言えばこれだけキリスト教の歴史が続いたことが、そこに何か真実なるものがあり、そこに流れ続けている真実が人間を生かし続け、助けられ続けてきたからこそ、今日この時があるのです。
サウロに起こった出来事というのは、聖書の中でもっとも大いなる出来事だと思います。私が牧師になって、いく人の方たちに、バプテスマを授けてきました。その方が神を受け入れてバプテスマを受ける事は、それこそが奇跡なのです。目の見えない神を信じて、神と共に歩む人生を選び取るのですから、そういうことが起こるということはやっぱり奇跡としか言いようがありませんし、それを第三者に説明する事は難しいことなのです。神の存在を信じて、神と共に歩む事は奇跡と言わず何と言うのでしょうか。聖書によれば、その人がイエス・キリストを信じるかどうか、神さまの働きなのです。神さまが働いて下さっているからこそ、私たちはイエスさまを自分の救い主と受け入れていけるのです。ここにおられる方々は、そのようにして人生を歩んで、主の元に安らいでおられる方々なのです。
サウロという人は最初、教会に敵対する人でした。ステファノという人が殉教する記事がありますが、その時にも、サウロはステファノが死刑にされていくのを、側で見ながら、ステファノに石を投げる人たちの上着の番をしていたのです。主を信じる者たちに神の名による裁きを与えよう、クリスチャンたちを殺害しようと意気込んで、大祭司の所に行って、(所持万端)何も妨害もなく進むように、道筋を整えて、ダマスコという町へ出かけて行くのでした。
ここからパウロが自分の信じる道に熱心になっているのが分かると思いますが、ここにはサウロの嬉々として迫害に向かう様子が読み取れます。このキリスト者に対して非人間的な行いは、クリスチャンが憎いから、クリスチャンに復讐したいからではなく、サウロの神さまに対する熱心さから出たのです。
「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。」(使徒言行録22章3~4節)
それほどサウロは神に対して熱心であった。私たちは例え神に熱心であったとしても、人間の熱心さには、つねに危険な面が伴っていることを自覚しなければなりません。パウロはキリストと出会い、バプテストを受けた後も、熱心という点では変わりがなかった。しかしそれは、他者を裁き、憎むことに於いてではなく、愛することにおいて、熱心であったのです。
「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識の通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(コリントの信徒への手紙一13章2~3節)
主によってパウロと名前が変わりますが、主に出会う前には非人間的な振る舞いに、キリストを受け入れた後は、他者を愛することにおいて、自分の熱心に注ぐようになって行くのです。そして、自分自身の知性の働きを決して鈍らせることなく生きた人でありました。
サウロはクリスチャンになってどのように変えられて行くのか。神ご自身がアナニアという人に告げています。
『すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名にためにどんなに苦しまなくてならないかを、わたしは彼に示そう。」』(使徒言行録9章15~16節)
サウロは自分の熱心を他者に押し付けるのではなくて、自らが他者の為に苦しむ事を、これからの人生において、主に求められて行くのです。これこそが、私たちクリスチャンの使命でもあるのです。私たちは人を傷つけたり、迫害する為に命を与えられているのではないのです。他者の為に生き、苦しむこそ、私たちは命を用いる。主に求められているのです。そのようにサウロは人生180度変えられたのです。「うろこが落ちた」と書かれていますが、生き方そのものが変わってしまったという事を示しているのです。サウロは主との出会いを通して自分自身の目が、いかに覆われていたか。自分自身が行こうとしていた方向が命を生かす方向でなくて、命をつぶし、消し去る方向に向かって行ったか。サウロは知らされていくのです。
私たちは皆、人を愛する力を、神から与えられています。ですが、私たちはその力を正しく使えているでしょうか。残念ですが、一人一人ご自身の胸に手を当てて考えてみでください。自分がその力を人を愛するためにその力を用いているか、それとも反対の方向に使っているか。力そのものは良くも悪くもないのです。それをどの方向に用いるかが大事なのです。その力が人を押しつぶしていく方向でなく、壊れた瓦礫を取り除いて、新しいものを創造していく、そのように用いられたとき私たちは真にその力を用いたといえるのです。神はそのような自由を私たちに与えられている。だからこそ、私たちは、その使い方を聖書から学んで行かないといけない。
サウロはその使い方を主から示されていくのです。あなたは人を傷つけたり、痛めつけたりするのではなく、自分の熱心を相手に押し付けて、自分の言うとおりにさせるのではなく、あなたがその人の痛みや悲しみを自分の悲しみや痛みとしていく方向へとその力を用いるのだ。そういう人生へとサウロは変えられて行ったのです。
この大いなる人生転換は、私たちの人生を、まったく違ったものにして行きます。私たちはさまざまな事態に直面します。病気、事故、挫折、その人にとっては人生大きな事態かもしれません。ですが、その一つ一つの問題そのものが問題である事はほとんどないのです。大事なのは、そういう事に対して、私たちがどういう態度を取るかではないでしょうか。自分自身が今、直面している苦しさや問題に対して、何を選べばよいかという事なのです。それをこそ知らされて行くことが、「目から鱗が落ちる」ということなのです。よく考えてみますと、試練や困難は決して人生の特殊な領域では決してありません。誰の人生にも、ごく当たり前の事として、与えられていることです。私たちはキリストと出会い目が開かれる時に、どういう事がその人に起こるかと言うと、自分が挫折の中にある時、その自分が「これが問題だ」と思うものに意識が集中してしまう。そしてこの問題があるから駄目だと、私たちは決め付けるのです。そうではなくて、悩みの時を生きようとも、健やかに生きていた時期と何にも変わりがない。むしろそういう時こそ、それに優る価値を与えられている。そういう時を生かされていることを、私たちが知る事ができる。それが大切なポイントなのです。私たちが人生の中で見るものは、生も死も、何の変わりがないという事です。死は特別なことではないのです。なぜなら、私たちの命は神さまから与えられたものだからです。そして、この地上で神さまを礼拝しつつ生き、地上を去っても、神さまの間近で礼拝する者として、生涯を歩む事が許されているのです。神さまは私たちを造り、どんな状況の中でも、背負ってくださる。聖書の約束であります。その約束が私たちの「目が開かれて行くこと」であることをもう一度自分の心の中に刻んで行きたいと思います。主が私たちの目からうろこを取り去ってくださり、今、自分がどんな人生を生きていようと、そここそが自分の最高の人生となるべき場所であることを知ることができるのです。それが福音、キリストの力なのです。どうぞ、その事を心に納め、後ろに置かれたお一人お一人がそのようにして人生を全うされたことを覚え、私たちもその後に続いていけるように、支えてくださる主に祈りを奉げたいと思います。

 

お祈りいたします。

 



2016年10月2日

宣教「主の憐みが私を変える」
マルコによる福音書1章40節~45節


聖書箇所

1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。


メッセージの要約

重い皮膚病、聖書によってはらい病と書いてあるのもあるかもしれません。
レプラというギリシャ語が使われています。現代ではハンセン氏病と呼び、開発途上国では今でもハンセン氏病を発症する人が多いです。
感染力はそれほど強くないのですが、治療をちゃんと受けられないと菌が段々と体を蝕んでいきます。
日本ではらい病と言っていましたが、その病気とわかるともうその村には住めなくなりました。
当時のユダヤではらい病がわかると、次のようにしなければなりませんでした。(レビ記参照)
13:45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。
13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。
普通の人が生活する空間にはいることができなくなったのです。
普通なら病になったなら同情を受け、世話を受けるべきなのに、人の世界の外に追いやられる。
追いやられた人の苦しみはどんなだったでしょう。
「なぜ自分はこんな病気にならなければならなかったのか。」と答えのない問いを問い続け、神を呪うことさえしただろうと思います。またまわりから受ける蔑み、敵意など、それによる苦痛は想像を絶するものがあります。
人間の世界の外に追いやられるというのは人間ではなくなるということです。
世界中にレプロシーミッションというキリスト教団体が運営している活動があるのですが、ネパールにあるレプロシーミッションに応援のため物資を持っていったことがあります。
そこで初めて私はらい病がどういうものであるかを目の当たりにしました。驚きで言葉がでませんでした。眼がなくなったり、手がなくなったり、鼻がなくなったりしておられました。また痛みを感じないためにやけどをしても全く平気なのです。
今では特効薬が開発されていますが当時は不治の病でした。

さて今日の箇所では、この人はイエスのもとに来てひざまずいて願いました。「御心ならばわたしを清くすることがおできになります」。なぜ癒すと言わなかったかというと、レビ記に書いてあったように汚れているとされたからです。だから汚れからすくってください、清くしてくださいと言ったのです。
周りの人はこの人の存在に気づいた時おそらくドン引きしただろうと思います。ライ病という病に対する恐怖と、そんな奴がなんでこんなところにいるのだという敵意が生じたでしょう。
しかし、イエスはその人を深く憐れんで「よろしい、清くなれ」と言われました。
この「深く憐れんで」という言葉は「内臓が引き裂かれる」というのが本来の意味です。内臓が引き裂かれるような痛みをイエスさまはそこで覚えられたということです。
そこでドン引きしている周囲の人達、本当ならそういう病の人の苦しみと痛みを理解しようとも、寄り添おうともしない人々のありようにイエスは憤りを感じ、また悲しまれただろうと思います。
イエスの言葉とともに、たちまちその人のらい病は癒されて清くなりました。

そのあと、以外な展開が起こります。
イエスさまはその人をすばやく立ち去らせようとして厳しく注意して言われました。「誰にも何も話さないように気を付けなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
そこら中の人に「私、治りましたよ」と言ってどこが悪いのだろうと思いますがイエスさまはそれをお許しになりませんでした。
その人を人の暮らしの外に追いやった人たち、差別していた人達のところに戻りなさいとイエス様はおっしゃったのです。いくら治ったとはいえ、これので受けてきた蔑み、敵意を彼はなかなか忘れられないでしょう。そんなところへ行きたいなんて思わなかったでしょう。この人自身も周囲に対して怒りや憎しみを燃やしていたとしても何ら不思議はありません。しかしイエスはこの人が彼の一番嫌なところに行くことをあえて求められたのです。
しかし彼はそこを立ち去ると大いにこの出来事を言い広め始めました。
皆さんは彼がしたことをどう思われますか。
このことにより、人々が押し寄せてイエスさまは町に入ることができなくなりました。それでもイエスさまの評判が広がり宣教が成功してよかったじゃないかと思われますか。
しかし教会はそのようには受け取らなかったのです。
なぜか。この人は「御心ならば私を清くすることがおできになります」とイエスに訴えました。そしてそのとおりに癒されました。一方イエスさまも後に同じように祈られることになったのです。十字架にかかられる前にゲッセマネという場所で。
「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られたのです。でもイエスに対してはその杯は取り去られなかったのです。つまりイエスさまは十字架刑という痛ましい運命を受けて行かなければならなかったのです。その十字架と復活のできことが人間にとっての真の救いのできごととなっていったのです。
ですから教会はイエスキリストを単に病を治す人としては述べ伝えなかったのです。
もしイエスさまを信じれば病気が良くなりますよ、抱えている夫婦関係も会社での関係もみんなよくなり、運が向いてきますよと告げ知らせたならば、教会はもっといっきに大きくなったかもしれません。
しかし教会はそれをしませんでした。イエスさまがここで注意されたように。
なぜならもしそうするならばただ欲望を露わにし、欲望を満たされることだけを人間は弱さの故に追い求めてしまうからです。教会というのは紀元後4世紀に公認されますがキリスト教徒などという存在にはじめの200年くらいは誰も注意を向けなかったのです。パウロがアテネで福音を述べ伝えたときに、十字架と復活の話まで来ると、「もうその話はいい、後でまた聞かせてもらうから」と無視されたことがありましたる。聴衆には十字架にかけられた罪人が人々を救う救世主だとは思えなかったからです。

イエスさまは私たちが見ようともしない罪を問題にされます。
福音というのはつまるところ、苦しみへの寄り添いのことですよね。
イエスさまは苦しんでいる私達の傍らに寄り添ってくださり、その苦しみを背負って歩いてくださる方なのです。だから教会は人々が自分自身の苦しみを引き受けていけるように導いていったのです。
そのような苦しみを通して人生の真実であったり、福音の豊かさを知らされていくのです。
御心をと祈りながらその祈りがかなえられず、十字架を引き受けていかれたイエスさまをキリストと仰ぐわけですが、私達がそれぞれの状況の中において、共に歩んでくださる方、苦しみに最後まで寄り添って下さる方、倒れたら手をとって引き上げ、その人が最後まで自分自身に向き合い、人生をその人らしく全うできるように助けて下さる方イエスが、この私の傍らに片時もはなれずいてくださるものとして歩むのであります。

ライ病を患っていた人は、彼を敵視し、自分を追い出したところに戻るようにイエスに言われましたが、彼はそうでない道を選びました。そのことを誰も責めることはできないかもしれません。
しかしイエスさまは憎しみや敵意とも逃げないで向かい合っていくように望んでおられるのです。私達は自分が行きたいところに行くのではなく、イエスさまが願われるところに行くことを通してはじめて神のしもべと呼ばれるにふさわしい存在になるのです。
これからも教会とクリスチャンの歩みはそういうものです。
それは獣に脅かされるような状況かもしれませんがどうぞそこには先週も学んだように天使もいてくださることを信じて、恐れないで一週間を歩んでまいりましょう。


お祈りしましょう。



2016年9月25日

宣教「主が私を呼ばれたのです」
マルコによる福音書1章16~20節


聖書箇所


メッセージの要約

今日の聖書の箇所は単純なお話しです。イエスさまがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた。湖のほとりを歩いておられると、シモンとその兄弟アンデレが湖で網をうっているのをごらんになった。そしてその様子をじっと見つめておられたというのです。イエスさまは彼らに「私について来なさい。人間を取る漁師にしよう」と言われました。すると二人はすぐに網を捨てて従ったのでした。「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、船の仲で網の手入れをしていると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残して、イエスの後について行った。」
教会の歴史が始まってすぐに、教会はさまざまな非難や批判にさらされました。いろんな憶測が飛び交い、教会とは何か、クリスチャンとは何者なのだ。その元をたどってみると、イエスという男について来いと言われて、良く考えることも、相談もせず、すぐにほいほいとついて行った、そういうやつらから始まった集団だ。とても分別のある者のすることとは思えない。そういう批判があびせられたのです。分別のある人から見れば、真に軽率にみえる。しかし、そうやって人々が非難した生き方こそが、他に例にはない確かのものであったのです。
何かを信じるという事はハードルが高いとよく言われます。信じることは理解と動機が必要だと。そう考えるのも無理からぬ話です。しかし、クリスチャンになるには、十分な理解、動機があって、主イエスに従うということが実現するというのなら、私たちの考えがふらついたり、変わったりしたら、どうなるのでしょうか。このような思いこそ実は錯覚なのです。聖書では、私たちが信仰を得るというのは、私たちの業ではなく、聖霊、神の業だと、はっきり言っています。
「聖霊によらなければ、誰もイエスは主であるとは言えないのです」(コリントの信徒への手紙一12章3節)
ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネも、言われてすぐについて行った。この4人は最後にどうなったかというと、殉教の死をとげたと言われているのです。彼らの中に真に確かなものがなければ、最後まで信じて道を歩くことなどできるでしょうか。私たち人間は、自分の中のどこを探してみても、最後にはあやふやなものが残る。しかし、私たちに確かな揺らがない動機がないとしても、神さまの方には十分な動機があるのです。神さまの方にはペテロ、アンデレを、そしてヨハネ、ヤコブに対する十分な動機がおありになったのです。私たちの信仰は神の中に基礎があるのです。私たちは試練の中において、たとえ心が揺らごうとも、神は揺らぐことなく、私たちを導いてくださるのです。だから、その道を歩み通すことが出来るのではないでしょうか。
私が信仰をもった時の事を考えても、どれほど理解していたか。その後、どんなことが起こるかなんて全く分かりませんでした。イエスさまに従って行く中で、だんだんと分からせてもらえる。それが信仰における恵だと思うのです。
でも、イエスに従うということは家族を捨てなければならないのではないかと思われるかもしれません。この4人は家族をすてたように見えますが、29節を見ると「すぐに、一向は街道を出て、シモンとアンデレの家に行った。」とあります。
18~20節だけを見ると彼らは残酷にも家族を置き去りにして捨てていったようにみえますが、彼らは自分の家に戻って、家族の者の病をイエスさまによって癒していただいているのです。イエスさまに従うことによって、彼らは真の家族とは何かを知らされ、本当の家族になっていったと言えるかもしれません。イエスに出会うまでは一家を養う分を稼ぐため、すべての事は自分たちに掛かっていると思っていた。しかし彼らは、イエスさまと出会い、自分の中心にイエスさまを迎えることによって、人生の中心は何か、命の源とはどんなものか、知らされていったのです。同じことが多くの弟子たちに起こっていったのです。そしてイエスさまの背中を見ながら歩んで行く者となったのです。イエスさまはこのようにして、シモン、アンデレ、ヨハネ、ヤコブを招かれました。彼らはこの事を多くの人に伝えていったのです。今に至るまでその歩みはとどまることなく、それによってイエスさまを信じる者がおこり続け、イエスさまの背中を見ながら歩いて行く人生に、喜び、平安があると教会は、キリスト者は証言し続けているのです。実に二千年間それは起こり続けて来たのです。私たちが真に求めているもの、願っているもの、それがここにあるのです。二千年の間起こり続けている、これを奇跡といわずして何と言いましょうか。私たちは、それぞれ一人一人置かれている状況はまったく違っています。しかし、共通している事はただ一つ、私たちは「主から呼びかけられている」という事なのです。主から呼びかけられたアンデレ、ペテロそしてヤコブやヨハネ、そして次は彼らを通して神は人々を招き続けられました。今も私たちを通して神は語って行かれるのです。今も神の呼びかけはクリスチャンを通してこの世界に響き続けているのです。
「私に付いて来なさい。あなたを人間を取る漁師にしてあげよう」
今日も私たちは礼拝を受けて、主の弟子として出て行くのです。一人ではありません。主と共に出て行くのです。主は私の先に立って歩いてくださるから、家族の所へ帰って行くのです。友達の所へ出て行くのです。難しいと思っている自分の職場に戻るのです。イエスさまを信じてそれで終わりという事ではないのです。私たちはイエスさまの背中を見ながら歩み出すのです。今までは誰かの人の背中を見ながら歩いて行ったかも知れません。しかし今、私たちの目の前にはイエスさまが先立って歩んでくださる。私以上に私を知り、私を愛してくださり、「あなたは私にとって何より尊い」と言ってくださる方が私を導いてくださるのです。その言葉通り、自分の命まで奉げてくださったイエスさまが、私の前に歩んでくださるのです。これ以上に確かな人生はあるのでしょうか。主が共にいてくださっている事、先立ってくださっている事、そのことを深く心に留めて、感謝してこの一週間を旅立って行きましょう。

 

お祈りいたします。 



2016年9月1日

宣教「真の人生に踏み出す時」
マルコによる福音書1章1節~15節


聖書箇所

1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。

1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、

1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

◆イエス、洗礼を受ける

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

◆誘惑を受ける

1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。

1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

◆ガリラヤで伝道を始める

1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。


メッセージの要約

皆さんは土居健郎さんという方をご存じでしょうか。
「甘えの構想」と言う本がしばらく前に有名になりました。
その中に大変興味深く指摘をしておらます。
なぜ現代に心の病気が増えるのかを論じたところです。

「現代人の幸福獲得戦争」―戦争など災害時に心の病気がよくなり、平和時に心の病気が増えるのは皮肉な話である。この事実から人間は不幸を直視できるときには病気にならない。不幸だが病気ではない。ところが不幸を直視できずなんとか幸福になろうと焦ると心の病気になる。」であるから戦争の時のようにみんなが不幸でどちらを向いても不幸だらけの時は誰も不幸から逃れようとしないから心の病気が減るのだろうと思われる。しかし平和な時は、平和なだけにめいめいが幸福になろうと懸命になる。実に今日の時代精神はなるべく多くの安楽を、苦痛のあたう限りの除去を、心を高揚させる刺激を追い求めることをもってよしとしている。

わたしもこの指摘には思い当たる部分が沢山あります。
自分自身に襲ってくる試練を直視せずに、誰かに責任転嫁したり、そこから逃げ出そうすしたり、しかしそうすればするほどさらに追いまくられるようにさえ思えます。
そんな中で私はキリスト教に出会ったのですが、出会ったときは、この宗教によって心の健康を回復させたいなと単純に思ったわけです。確かに宗教にはそのような面があることは否定できません。しかし反対に宗教心ゆえに心が益々病むことだってありうるのです。
宗教を持ったがゆえに自分自身は正しいと思いこんでしまう。そしてそこで与えられた正しさによって周りの人を裁き始める。自分自身の分を超えて自分を神と等しいかのように考えてしまう、そこであらたな病が生じてしまうようなことが起こり続けています。
そしてまた何かを信じる、しかし信じてもうまくいなかいと、自分の努力が足りないから駄目なんだ、もっと献身しないから駄目なんだと自分自身を追い詰める。
私達は宗教を信じていくときも、信じていないときにも心の在り様が定まらないために、自分の望まないような方向に行ってします。皆そのような経験を持っているのではないかと思います。

ここに登場してくるバプテスマのヨハネですが、彼はどうようなことを語ったでしょうか。
ルカによる福音書3章の7節から―
そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

ある意味全うなことではありますが、イエスの時代、飢饉が起こったり、ローマからの重い税に苦しんでいたり、イスラエルの人たちは自分たちの希望をどこに見出していいかわからなかった。皆自分のことで精一杯だったのです。誰もが自分を守ろうと必死だった。これは今の日本にもいれることかもしれません。
コンビニで店員さんを怒鳴り続けている人がいたり、電車の中でも大声で怒鳴っている人を見かけたりしませんか。まるで自分が神にでもなったかのように、他者を弾劾している人を見るとやり切れなくなります。
しかしヨハネは下着を2枚もっているものは一枚を人にあげなさいと言うのです。
皆さんはどう思われますか。
この二枚しかないと思い、それらにしがみついているときには、周りにいる者が自分からそれを取り上げようとする敵だとみなしても不思議はありません。しかしそれを分かち合うことができればもはや相手は敵ではありません。
私達と同じように呼吸をしている人になるのではないでしょうか。
徴税人は同胞から憎しみを受けている人でした。ローマへの税金をローマ人に代わって取り立てていたからです。人々から憎まれる分、満たされないものをさらに沢山取り立てることで心の満足を得ようとしていました。
しかしヨハネは規定以上のものを取り立てるなと言われます。
それでは俺たちは憎しみを受けるのだけに甘んじろというのか、という叫びが聞こえそうです。
でも江戸の敵を長崎で打つようなことをし続けても本当の幸せは得られないのです。
このままいけば自分の行動によって、益々人との距離は開き、敵意が増していくような方向にエスカレートするのです。それを絶ち切れるのはあなただけだとイエスは言われたのです。
兵士も自分の命をかけて国を守る。ですから当然不安と怖れとがあると想像されます。自分が死んでしまえば家族を養えなくなるから、前もって安全な方法を取ろうとする。人のお金をゆすりとってまで・・・。しかしヨハネはもらっている給料で満足せよと言うのです。

つまりヨハネが言っていることは、不幸をごまかさずそれに耐えて行きなさいということではないでしょうか。
この当たり前の方向に自分自身を向けることは言葉で言うほど簡単なことではないかもしれません。
ヨハネは罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。
悔い改めるというのは向きを変えるということです。つまりそれは生き方を変えるということです。
私達人間には誰の中にもバプテスマのヨハネの問いかけに響く部分があるのではないでしょうか。
自分の罪を認めることはなかなか勇気がいることでしょう。
私にとってもそうでした。
わかるんだけどそこまでする必要あるのかなと思いました。

自分の中の見たくない部分、バプテスマのヨハネもイエスさまも、自分の中のみたくない部分を今問題にする点では一致していると思います。
見たくない部分を指摘された時にはやっぱり反発を覚えます。やりたくない。しかしそういうものを指摘されたときだからこそ、「そうです。私はおっしゃる通りの人間です。」と神の前に腰を折ってみる。そこから見えてくる人生もあるのではないかと思うのです。
そういう姿こそ人間にとってのもっとも尊厳のある生き方、姿ではないでしょうか。
見たくないものを拒絶して、誰かのせいにして、何かで補おうとするときに、お金の盲者になったり、化粧品や健康器具を買いこんだり、様々な資格を取ることで自分の埋められないところを保障してみようとしたり、あるいは地位に上り詰め人から認められ称賛されることで自分を偽装し、みたくないものをなかったことにしようとします。
しかし私達は向かい合わなければならないものに、謙虚になって向かい合わなければ本当に幸いな人生というのは決して開かれてこないのです。
バプテスマのヨハネが人々に語ったことはまさにそのことでした。
人々はそこに真実があると思ったからこそ反応したのです。

でも、罪がないイエスさまがなぜバプテスマを受けられたのかと多くの人が問います。
大事なことはイエスさまが洗礼の招きに答えられたということです。
多くの人と同じように、自分にこのバプテスマはふさわしいと思われたということです。そのことこそが最も大事なポイントであります。
そしてイエスさまはそこからご自分の公生涯、今までの大工として家族を支えるという人生から、自分の人生を全ての人に捧げるという人生に移っていかれたのです。

マルコ1章9節にもどりましょう。
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
霊が鳩のように御自分に降って、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声をお聞きになったのです。

そのあと、なんと霊は荒野へとイエスを連れていきました。
マルコ1:12―
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
聖霊を受けられたイエスさまは天使に囲まれた安らかな天国のような生活を送られたわけではなかったのです。
天使たちが仕えていた。しかし天使が一緒の生活とは野獣と一緒の生活において展開するということを示しているように私には思えます。
天使も一緒、野獣も一緒。それが聖霊に満たされた者の姿ではないかと思うのです。
私達の人生には沢山の苦難があり、私達はそれに対してどう向かい合っていいかわからいない時が沢山あります。
病気になったり、失敗をしてしまったり、色んな意味で挫折を経験し、そんな中でも私達は自分の心の在り様をどうもっていったらいいのか、そんな中でも変わらない生き方はあるのかと模索するでしょう。
イエスさまはそういういう生き方がここにあるよと言われているのです。
それは「時が満ちた。天国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という呼びかけに答えることです。
確かにあなたがたは野獣と一緒のような不安が襲ってくる中を歩いているかもしれない。しかしそこには天使も一緒だよとイエス様はおっしゃっているのです。
それが福音ということです。
私達の人生にはただ困難や苦難が単独であるわけではないのです。そうではなく神も共におられる、天使も共におられる。だから安心して自分の苦しみを引き受けて行きなさい。それが信仰者の姿であります。信じればすべてのことが解決して、心が平安になるというではないのです。
安心して潔く苦しんで生きていくことができる、まさにそのことこそ福音の持つ本当の力なのです。
それを避けようとするあまり、どこかに桃源郷、楽園があるんじゃないかと思う。しかし楽園は今ここにあるのです。なぜなら天使が共におられることを私達が知ることさえできれば、私達はもう一度、試練を自分に与えられたものとして引き受けて行こうという覚悟と、時が満ちることを待つ覚悟が生まれていくからです。
イエスさまはそれをここで見せてくださっているように思います。
ですから皆さん安心して信仰を持ちバプテスマをお受けになってください。
バプテスマは決して私達が特別な者になるという儀式ではありません。
クリスチャンになる、それは目の前にある人生に対してどこに自分の目を向けるかをはっきりさせ、自分の見えていなかったものが周りにあることを知ることができるものなのです。

この出来事の後、イエスさまの困難は十字架に至るまで続いていきました。
師匠がそうでありますから、私達も同じであります。人生は試練と困難の連続です。だからこそ、どんな時も私たち共に歩んでくださる方がいてくれる意味ははかりしれなく大きいのです。
そのことをしっかりと心に刻んでこの1週間を共に歩んでまいりましょう。
お祈りします。



2016年9月4日

宣教「真実には真実をもって」
マルコによる福音書1章1節~11節


聖書箇所

1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

◆イエス、洗礼を受ける
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


メッセージの要約

聖書教育の順番では今日から列王記に入るところですが、少し聖書教育を離れてマルコによる福音書を読んでいきたいと思います。

聖書には4つの福音書があります。
マタイによる福音書はイエスキリストの系図から始まっていき、ルカによる福音書はイエスの誕生にまつわる記事から始まります。まず、洗礼者ヨハネの誕生があり、そこからイエスさまの誕生が続いていくことがわかります。
マルコはイエスの誕生、公生涯以前のことは飛ばし、いきなり荒野でヨハネが洗礼を授けている記事から初めていきます。
マルコ1章1節には「神の子イエス・キリストの福音の始め」。マルコの福音書のタイトルになるような言葉でこの福音書が始まっています。
2節:預言者イザヤの書にこう書いてある「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
ルカによる福音書を読むと、このヨハネとイエスさまは親戚関係にあったことがわかります。ヨハネの父親は神殿に仕える祭司の一人でした。ですからヨハネは父親と同じように神殿に仕える祭司になってもよかったのですが、彼は神からの召し出しを受けて、まるで旧約の預言者エリアのようないでたちで、荒野において「悔い改めよ、洗礼を受けよ」と述べ伝えていたのです。洗礼はヨハネが初めて行ったのではありません。異邦人がユダヤ人の神を信じたいと思ったとき、洗礼をうけなければなりませんでした。また、世俗化した社会を離れ、聖書に忠実に生きることを目指して荒野に移り住んだ人々も、一年に一度洗礼を行っていたことがわかっています。しかし、本来ユダヤ人は洗礼を受ける必要はなかったのです。なぜなら既に神によって清い民とされていたからです。

ヨハネはイスラエルの人々に対して、礼拝が形骸化し、神の民としての生活から神が抜け落ち、信仰が空洞化していることを厳しく糾弾したと思われます。その彼の叫びは一般民衆だけではく、王侯、貴族、祭司や律法学者やパリサイ人といった人々の心を揺り動かしました。それで、多くの人がヨハネのもとに来て洗礼(バプテスマ)を受けていました。

ヨハネの語っていた《悔い改め》とは、回心―心を神さまの方に向ける―ということを意味しています。礼拝に出ても、聖書に書いてあることを実行しても、心が神に向かっていなければ意味がありません。ヨハネは神殿で神に仕えるよりも、荒野で神と一対一になって、神を信じるとはどういうことか、その神との出会いを体験するなかから、預言者として建てられて、神の言葉を取り次ぐ働きをしていたのです。
彼はこう言っていました。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」

イスラエルの人々がヨハネのさび賭けに自分の中の罪を見出したのは理解できます。しかし、どうしてイエスさままでもがバプテスマを受けられたのでしょう。罪のない、神と等しい方である方がなぜと思うのです。

それはイエスさまの心にバプテスマのヨハネの真実が映し出され、共感されたからだろうと思います。
「悔い改めよ」と人にせまる、皆さんがそのような使命を与えられたらどうでしょうか。
まず自分が人に悔い改めをせまれるだけのものを持っているだろうかと問われると思います。そして自分の生活を点検し、これなら人の前に出て恥ずかしくないとなって出て行くように思います。しかしどうしてもそのような立場に立つと、私は正しいもの、あたなは悔い改めるべきものと上から目線で言ってしまうように思います。
しかしヨハネの中にはそのような思いはなかったことが「わたしはかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と言っていることからもわかります。
ヨハネは自分を絶対化していません。
そして、私は水でバプテスマを授けるがその方(イエス)は聖霊でバプテスマを授けられる、真にあなた方を変えて下さる方だと言うのです。
自分を謙虚に相対化して、つまり自分を棚に上げて人を裁くような傲慢なところは全く見受けられません。
ですから彼の語る悔い改めには実がある。厳しさと共に謙遜、そして優しさがあります。だからこそ人々は、そしてイエスさまも彼からバプテスマを受けることを良しとされたのだろうと思います。

この礼拝堂にもバプテスマを受けた方々がおられますが、キリスト教には真理があると思えて信仰を持っていかれたのではないでしょうか。
私もある方から信仰を伝えられましたが、その方も神に従う厳しさに震えながらも、自分は赦されており、その喜びを伝えたいと自分を絶対化せず語ってくださったからこそ、イエスさまを信じる決心に導かれたのです。

イエスさまもヨハネの呼びかけに応えてごく自然に洗礼を自分にふさわしいものとして受けていかれました。
イエスさまは自分は神と等しいものだからバプテスマを受けるなんてありえないなどと思わず、ヨハネの前に身をかがめることから公生涯を始められたのです。
このできごとは悔い改めを通して注がれてくる神さまの恵みがいかに豊かであるかということを示しているようにも思います。

イエスさまがバプテスマを受けられるとどのようなことが起こったかというと、
10節「水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった。」
天が裂けたというのですから、それはすごいことが起こったのです。そこから霊が鳩のように降ってき、そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたというのです。
このバプテスマによってイエスさまは御自分がどのような者であって、自分に何が託されているかを知られたのです。

バプテスマを受けられたイエスさまは、その後与えられた霊に導かれて荒野へと行かれました。(12節~)
そこで40日間過ごされ、サタンから誘惑を受けられました。その間、野獣と一緒におられたが天使たちが仕えていたと書いてあります。
野獣とは、オオカミ、ヒョウ、ライオンなどでしょうか。そういう野獣が牙を抜かれたようになって猫のようにおとなしくなっていたのでしょうか。
私はそうではないように思います。
それらの野獣はイエスさまがこれからたどられる、人々からの蔑みや裏切りや暴力、そういった試練や苦悩の現実の中を歩まれたということを象徴しているのだと思います。
しかしそのような中で天使もそのそばにいたというのです。
ダビデの生涯を思いだしてみてください。彼は野獣と戦い、巨人とも思えるような歴戦の戦士と戦い、数々の戦にも勝利しました。そして一国の王にまでなりました、そこからがまた大変で、自分の欲望の成就と引き換えに人を殺し、沢山の人を巻き添えにし、自分の家族からも裏切られ、苦しみの連続でした。
しかしその苦しみの多い人生の中でも神さまが共におられるということを感じていたのです。ですから彼はここにある悔い改めと同じような道を何度も人生の中でたどったのです。間違う度に神さまの方に向きを変え、自分心の中の苦しみや痛みを神さまにゆだねて歩んでいったのです。

私達の人生も野獣と一緒にいると思う面が多くあるのではないでしょうか。
学校にいっても、職場に行っても、あるいは家庭でも、いわれのない敵意を向けられたり、針の筵に座らされているような現実を味わっ他ことがおありだと思います。また自分の限界を思い知らされることもあるでしょう。病気やけがあるいは事故によって体を壊し、以前できたこともできなくなって、自分が生きていることが苦しいと思われることもあるでしょう。
しかしその現実の中に天使もおられる。天使が共におられることを感じさせる存在こそ聖霊という方であります。だから私達はイエスを信じると同時にバプテスマを受けて、聖霊を受けつつ、人生の旅路を歩むのです。
洗礼は特別なことではなく、イエスさまに起こったようにごく自然なことです。そしてそこからが始まりなのです。
だから、マルコは1節で「神の子イエス・キリストの福音の始め」と記しているのです。
初めがあれば中間があり、終わりがあるのですが、私達は今その中間にあります。その中で礼拝を通して、今聖霊が共にいて下さることを繰り返し知らされ、そしてまた自分の現実へと戻っていくのです。一週間の中で苦しみや痛み、しかしそこに神さまは共におられたことを確認してまたそれぞれのところに遣わされていくのです。
どうぞ、ご自身の心の中に、ここにすなわち御言葉の中に、それを信じている人々の生き方の中に真実があると思われるならば是非見なさんも洗礼へと信仰告白へと至っていただきたいと心から祈るものであります。


お祈りします。



2016年8月28日

宣教「歴史を導かれる神 その8」
サムエル記下24章1~25節 


聖書箇所


メッセージの要約

よく旧約聖書の神は怒る神で、新約聖書の神は愛の神である。そんなふうに言われる方がおられ、今まで何回か聞いてきました。しかし、それは間違いです。決して旧約聖書の神は単に怒るかみではありません。旧約聖書の神が新約聖書の時代になって突然愛の神になるなどという事ではないのです。神は一貫して愛の神であられると言う事は間違いのない事なのです。今日の物語の中にも記されているのです。
今日私たちはダビデの晩年の出来事に触れるのですが、人生というものは最後の最後まで試練を免れないものだということを思わされます。
『主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。』
発端は主のダビデへの誘いでした。
『王は直属の軍の司令官ヨアブに命じた。「ダンからベエル・シェバに及ぶイスラエルの全部族の間を巡って民の数を調べよ。民の数を知りたい。」ヨアブは王に言った。「あなたの神、主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王はなぜ、このようなことを望まれるのですか。」』
ヨアブは、なぜこの時に人口調査なのかとダビデに訊ねたのです。かつてのダビデだったら、その理由をヨアブに説明しただろうと思います。しかし、この時のダビデはたとえ誰であろうと自分の言葉に異を唱える者を決して許さぬといった猛々しさがありました。
そもそも主が誘われたときに、ダビデは「なぜ今人口調査をするのですか」と尋ねる心があったはずなのです。この下りを読みますと、ダビデは神さまの命令を、神への信頼から実行したというのではなくて、ダビデの隠れた願いのゆえに行ったのでした。人生の晩年を迎え、「はたして自分に生きてきた意味があったのか。」ダビデも心の中でそう自分に問うていたと思われます。それを知るのに人口調査は願ってもない事だったのです。その結果、自分が軍隊を百三十万人も所持しているということが判明しました。具体的に数字として出てきたのです。しかし、どんなものを持っていたとしてもそれははたして人生の意味を保証することになるでしょうか。
私たちは信仰を持とうと、持つまいと、私たちは自分の人生はこれで良かったのか、そういう問いをいつか自分に問うのではないでしょうか。私たちにとって死というのは、聖書的に言えば与えられた命をお返しする、たったそれだけの事ですけども、私たち実感はそれでは済まされないのです。自分の生きてきたことに意味があるという事を確かめてみたくなる。この出来事の発端は神さまだったわけですが、神を知らなくても、同じような誘惑は誰にも起こるのではないでしようか。自分の人生は意味があったと思いたいし、それを何かで確かめたくなる。ダビデも人生の終わりにあって、そのチャレンジに直面したのです。ダビデが何故こうも強固にヨアブに命令を出したのか。それはダビデもその欲求にあらがえなかったという事を示しているのです。そして、数は明らかになった。しかし、そのとたんダビデは呵責を覚えたのです。ダビデは自分が何をしたのか悟りました。
『ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」』
それは、自分の人生の価値を、自分の所有している物の量や、自分が成し遂げた出来事で計ろうとすることの愚かさとむなしさを彼が悟った瞬間でした。彼の人生は神によって見出されることによって始まりました。彼がなしたことはすべて幼いときから神から与えられた力によるものだったのです。いつしか、それが彼の中で自分の力だと思うようになって行ったのです。ダビデは人口調査とそれに伴う災厄を通して、命をふくめ、自分が成し遂げてきたことも、神から預けられた力によるものだったことを自分がどこかに置き忘れてきてしまったことを思いだしました。私たちが生きているという事そのものが神の恵みだということを忘れていたのです。何ができるのか、何を持っているかで、自分の人生の良し悪し計るとき、私たちは大きな落とし穴に落ちることになるのです。しかし、神の方に向き直るときに、私たちは自分の人生がたとえそれがどんなに過酷なものであつたとしても、「すべてよし」と受け取って行けるのです。
ガドは主から受け取った言葉をダビデに告げました。ダビデは主の手に掛かって死にたいと思いました。しかし、死んだのは七万人の民だったのです。災いをもたらす御使いはなおも民を滅ぼそうとしますが、神はその災いを思い返されて、御使いに「もう十分だ」と押し止めました。ダビデは御使いが民を討つのを見て『「罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。」』
そう祈るしかなかったのです。すると、その日ガドが来て、「アラウナの麦打ち場に上り、そこに主の祭壇を築きなさい。」ダビデは主が命じられた言葉に従って上って行きました。そこで、祭壇を築き礼拝を献げたのでした。
『主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエル下った疫病はやんだ。』
ダビデが祭壇を築き、献げものをしたからではなく、神の憐みが災いを防いだ。そのことを、私たちは間違ってはなりません。
神は愛するダビデを最後に試みられました。それは神さまがダビデを信じていなかったからではありません。チャレンジを受けたのはダビデだけではないのです。聖書にヨブ記というのがありますから是非読んでみてください。私には自分の代わりにダビデが試練を受けたように思えます。神はダビデを信じていなかったのではなく、彼がこの試練にも耐えると信頼して、それをお与えになったと思います。私たちはいろんな意味で、それぞれのステージで誘惑や試練に直面するのです。ダビデは自分の行いによって、最後の最後まで多くの命を自分が背負っているということを知らされた。それは彼にとってはとてつもない重荷、十字架だったと思います。それを下ろすことは、神のもとに行って、初めて成し遂げるのです。彼は自分自身の神への姿勢が、周りの人にも影響するということを、改めて思い知らされたのです。

最後に一つの詩を紹介して終わりたいと思います。
「最上のわざ」  ヘルマン・ホイベルス
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること…。
老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために…。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつ、はずしていくのは
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚して承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残して下さる。それは祈りだ…。
手は何もできない。けれども最後まで合唱できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために・・・・・
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と・・・・・。

私たちはそれぞれ、さまざまな歩みを通して自分の人生の最後に向き合って行くのです。自分に信仰があって良かったと思えるのは、出来る出来ないではなくて、神が命を下さって、どんな死であろうとも、神は知っていてくださり、私たち命を最後まで守って導いてくださる。そういう確信の中に生きることが、最上の祝福なのです。自分が何をして来たか、何を今出来るか、考える必要がないのです。私たちは神の御手にあって、備えられているのだ。ダビデは人生の最後に悲しみと痛みの出来事を通して私たちに伝えてくれているのです。人生のどんな時にも、神はわが主であり、命を与える主であり、私たちはその方にただ喜び従って生きる時に、本当の平安を得るということを。神から与えられている物を、周りの人と分かち合って喜びとする。そのような人生を歩んで行きましょう。

 

お祈りいたします



2016年8月21日

 

宣教「歴史を導かれる神 その7」
サムエル記下21章1~14節


聖書箇所

21:1 ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」

21:2 王はギブオン人を招いて言った。――ギブオン人はアモリ人の生き残りで、イスラエルの人々に属する者ではないが、イスラエルの人々は彼らと誓約を交わしていた。ところがサウルは、イスラエルとユダの人々への熱情の余り、ギブオン人を討とうとしたことがあった。

21:3 ダビデはギブオン人に言った。「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろうか。」

21:4 ギブオン人はダビデに答えた。「サウルとその家のことで問題なのは金銀ではありません。イスラエルの人々をだれかれなく殺すというのでもありません。」ダビデは言った。「言ってくれれば何でもそのとおりにしよう。」

21:5 彼らは王に答えた。「わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、

21:6 あの男の子孫の中から七人をわたしたちに渡してください。わたしたちは主がお選びになった者サウルの町ギブアで、主の御前に彼らをさらし者にします。」王は、「引き渡そう」と言った。

21:7 しかし、王はサウルの子ヨナタンの息子メフィボシェトを惜しんだ。ダビデとサウルの子ヨナタンとの間には主をさして立てた誓いがあったからである。

21:8 王はアヤの娘リツパとサウルの間に生まれた二人の息子、アルモニとメフィボシェトと、サウルの娘ミカルとメホラ人バルジライの子アドリエルとの間に生まれた五人の息子を捕らえ、

21:9 ギブオン人の手に渡した。ギブオンの人々は彼らを山で主の御前にさらした。七人は一度に処刑された。彼らが殺されたのは刈り入れの初め、大麦の収穫が始まるころであった。

21:10 アヤの娘リツパは粗布を取って岩の上に広げた。収穫の初めのころから、死者たちに雨が天から降り注ぐころまで、リツパは昼は空の鳥が死者の上にとまることを、夜は野の獣が襲うことを防いだ。

21:11 サウルの側女、アヤの子リツパのこの行いは王に報告された。

21:12 ダビデはギレアドのヤベシュの人々のところへ行って、サウルの骨とその子ヨナタンの骨を受け取った。その遺骨はギレアドのヤベシュの人々がベト・シャンの広場から奪い取って来たもので、ペリシテ人がギルボアでサウルを討った日に、そこにさらしたものであった。

21:13 ダビデはそこからサウルの骨とその子ヨナタンの骨を運び、人々は今回さらされた者たちの骨を集め、

21:14 サウルとその子ヨナタンの骨と共にベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。人々は王の命令をすべて果たした。この後、神はこの国の祈りにこたえられた。


先週、夏期休暇をいただいて熊本の実家に私一人帰らせていただきました。一週間両親と3人で過ごしたわけです。生まれてこの方こんなに家の中にずっといたのは初めてでした。朝、昼、晩と食事を作り、薬を飲ませ、着替えを手伝い、後片づけをし、洗濯物を干し、デイケアに送りだし、病院に行くという両親の日常を共に体験してみて、普段世話をしてくれる妹の大変さと同時に、一緒にいてやれない親不孝な自分を思い知らされました。最後の日、両親をデイケアに送りだした時、はっと気づかされたことがありました。夕方になれば、彼らは家に戻ってくるけれど、いつか送りだしてもう二度と会えない日が来るということを。その時、さびしさ、恐ろしさ、空虚さが私の中に大挙して押し寄せてまいりました。もし、地上での人生が終わり、天国で再会する希望が与えられていなかったら、それに堪えられる者などいるだろうか、と思ったのです。
今日の聖書の箇所で取り上げられていることもまた、イエスキリストの十字架の出来事のはるか前に起こったことではあるのですが、イエスキリストの救いと深く関連した出来事であると思わされます。
ダビデの世に3年連続して飢饉が起こった時のことです。この時、この困難はサウルがギブオン人に行った罪と関連しているということが判明し、ダビデはギブオン人の要求を受け入れてサウルの子、ヨナタンを除くサウルの親族7人を彼らに引き渡したのです。そして、7人は全て殺されるという痛ましい事件が起こりました。神さまが何故この時期にこのようなサウルの罪を問題にされたのかは、私達には理解することは出来ません。しかし、神さまは、私たちの犯した罪をそのままにしては置かれないし、罪は犯したその本人だけでなく、周りの者たちの命にも関わっていくと言うことが明らかになったのです。この悲惨な出来事を前に、自らのありようを一人一人が省みるということを通してイスラエルの国が一つとなり、神さまへの信仰を新たにさせられたのです。そこで飢饉は止みましたが、それは人間が悔い改めたからではなく、神の私たちへの憐れみのゆえだったことを忘れてはなりません。
皆さんは、ヨナの記事を覚えておられるでしょう。ヨナの宣教を聞いたニネベの人々は悔い改めて預言された裁きは回避されました。しかし、これを不満としたヨナは神から顔を背けました。その時に神さまがこのヨナに対してなされた取り扱いは有名ですよね。ここでは神さまがイスラエルの民だけの神ではなく異教の民や家畜の命も大切に思っておられる神であることを示されたのでした。
ダビデとイスラエルに起こったこの悲しい出来事を通して、今日しっかりと心に留めましょう。なぜ7人のサウルの親族が殺されねばならなかったか、私たちの頭では理解しがたいことです。しかし、私たちはこの7人の方々も神はご自身の身手の中に省みて下さっていると確信するのであります。なぜなら、神はご自身のひとり子であるイエス・キリストの命さえも惜しまず、罪にまみれた私たちに差し出して、私たちへの愛を示して下さったからです。地上では悲惨な事件が後を絶ちませんが、そのような出来事を通して神が私たちに語り掛けて下さっています。「人はどんな死を迎えたとしても、死で終わるものではない。わたしがいる。わたしにとってすべてののちは尊い」と言ってくださる神がいるのです。これからの1週間、そのことをしっかりと心に刻んで生きて行きたいと思います。



2016年7月31日

宣教「歴史を導かれる神 その5」
サムエル記下6章12~23節


聖書箇所

6:12 神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。
6:13 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。
6:14 主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。
6:15 ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
6:16 主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。
6:17 人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。
6:18 焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、
6:19 兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。
6:20 ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」
6:21 ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。
6:22 わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」
6:23 サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。


メッセージの要約

障がい者施設で大勢の人が殺されるという悲しいできごとが起こりました。無抵抗の人間を自分の一方的な主張のゆえに殺害するということは決してあってはならないことです。必死の思いで共に生きてこられたご家族の思いも同時に踏みにじってまで、この犯人はいったい何をしたかったのでしょうか。なぜこのようなことが起こるのか、神はこんなことを黙って容認されるのかと叫びたくなります。
しかし「神さまなんていない、いても無力だ」と思いたくなる現実の中で「否!、神は確かにおられる。神は決してこの現実に満足しておられるのではない。」と宣言すること、私たちはこの礼拝をもってこの世に向かって叫ぶのす。

このような時だからこそ、ダビデのようにただひたすらに、主に向かって心の底から礼拝したいものです。
今日の箇所はダビデの人生の中でとても大事な箇所です。神の箱を都と定めたエルサレムに運び入れるところです。
神の箱にはモーセが受け取った十戒が収められていました。神の箱と主の箱とは同じです。この取り扱いについてはきめ細かな規定がありました。
この箱は一度ペリシテ人に奪われたことがありました。
サムエル記上4章にはその経緯が書かれています。イスラエルの人々はかつて戦況が悪くなったときに、神の箱を運んできて助けてもらおうとしたことがありました。それはただ困ったときの神頼み、ご利益信仰、自分の目的のために神を利用しようとした行為だったため、その戦いに惨敗してしまい、神の箱をペリシテ人に奪われてしまいました。しかし神がペリシテ人に災いを下されたので箱は戻され、イスラエルの地キリヤト・エアリムに安置されて三十数年の時が経っていました。

ダビデは最初3万の兵士と共に楽器を奏しながら威厳をもって神の箱を運ぼうとしました。それは、はた目には神さまを大いに敬っているように見えたことでしょう。しかし牛がよろめき、箱が落ちないように押えたウザが死んでしまうということが起こります。落ちようとする箱をとっさに抑えようとするのはウザでなくとも誰もがすることです。なぜウザは死んだのか、ただ箱に触れたからというだけではないと思われますが、しかし真相はわかりません。それを見てダビデは怖くなって箱をガト人(ペリシテ人)オベド・エドムの地に送りました。
オベド・エドムの人達も怖かったことでしょう。イスラエル人でも箱の扱い方を間違うとこのような被害にあうのならば、異邦人の自分達がミスでもしたらどうなるかと思ったことでしょう。
しかし、主はオベド・エドムの人達を祝福されました。それは思ってもみなかったことだっただけに周りの人々の関心の的となったのです。

箱は3か月そこにありました。その間、ダビデは何を思ったでしょうか。
自分のどこがいけなかったのか、どこに間違いがあったのか、考えに考え抜いただろうと思います。自分は3万の兵と音楽隊で精一杯、主への畏敬と感謝を表わしたつもりだったが、しかし、自分には真実に「神を喜ぶ」んでいただろうかと。すごい歓待ぶりを示すことで、自分には力があり、自分の信仰を周りの者たちに認めてもらいたかったのではないかと。「神がこの私を愛してくださっている」なら、それへの感謝は私が直接主に向かってなすべきだったのではないかと。
14節には「主の御前でダビデは力のかぎり踊った」と書かれています。立派な服、立派な馬、大勢の家来に認められた自分でなく、どんな敵にも一人で立ち向ったかつての自分、小さくて、鎧もきれず、武器も持てなかったが、神お一人が味方であれば他に何も必要ないと思っていた自分。神の前で裸であることを恥と思わなかった自分に。裸だったけれどすべてのものを持っていた自分に。人と一緒にでなく、この私、自分自身が主を心から信じているということが大切なんだと。
あなたは自分の信仰をどのように表していますか。
私はこの物語から自分の信仰に装飾をつけて、自分で自分を安心させようとしていないかと問われました。

民と共に祝ったダビデは家の者にも祝福を与えようと家に帰ります。その一行の様子をミカルは見ていました。ダビデの妻ミカルはサウル王の娘で、一度はダビデの妻になりましたが、ダビデが逃亡生活をしている間に父によって別の人間の妻とされました。サウルの死後、ダビデは再びミカルを妻として迎えたのでした。夫ダビデと父サウルとの確執、そして逃亡、さらには別の人間との結婚生活、十数年を経ての再再婚、それはミカルの心に大きな傷を残したのかもしれません。
この時、ミカルはダビデを見て「今日のイスラエルの王は御立派でした。家臣たちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように」といいました。ダビデのことを「空っぽの男」と呼んだのです。
こんなことを言われてよくダビデが怒らなかったなと思うのですが、ダビデにとっては神に愛されていること以上のものはなかったのです。ミカルは人の力に翻弄された人生を生きてきたといえるでしょう。彼女にとって神は試練を与える神ではあっても、その試練の中でその人の成長を促し見守り、そのような形で人を愛する神だとは信じられなかったのかもしれません。何の迷いもなく、主の前を行くダビデと、彼を導いている神の仲が恨めしかったのかもしれません。彼女にとって裸のダビデは、弱さとみじめさの象徴にしか見えなかったのでしょう。
一方ダビデは主の前で踊っていたのです。これは大事なことです。神がいるということが疑われ、神が遠くにいるように思える時にも自分を神の前におくこと。
信仰があるということはどんな状況の中でも神がここを支配しておられるという視点を持ち続けることです。そしてある時、自分は空っぽだったと知らされる時が訪れても、「空っぽでいいんだ。この空っぽの私を神は愛し、空っぽだからこそ神ご自身の愛と祝福で満たして下さる。」それが私達の信仰ではないでしょうか。
どうぞ、この物語をご自身で味わってください。私はどのように神を喜んできたか、これからどうやって神を喜んで生きるのか、信仰とは何かを問いかけてみてください。

 

お祈りします。



2016年7月24日

宣教「歴史を導かれる神その4」
サムエル記上24章1~23節


聖書箇所


メッセージの要約

今日私たちが神から受ける事、結論を先にもうしますと、私たちはどのようにしてこれが神の御心なのか、その事を私たちは知る事が出来るのだろうか。それを見分ける事が出来るのかという事なのです。ダビデはサウルによって何度も襲撃を受け追い回され、追い詰められました。23章には、サウルがダビデを追跡されている事が記されています。
『 ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせがあったので、ダビデは主に託宣を求めた。「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え。」だが、ダビデの兵は言った。「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか。」ダビデは再び主に託宣を求めた。主は答えられた。「立て、ケイラに下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す。」』
ここを見るとダビデとダビデに従う者たちの間に対立が起こっています。ダビデは主から聞いて、行ってペリシテ人と戦おうとする。他の者たちは、ただでさえ私たちを追い詰められているのに、ここに居て苦しい思いしているのに、「ペリシテ人と戦ってどうなりますか。それは神の御心ではない」というのです。多数決を取ったらダビデは負けていたでしょう。しかし、ダビデはそれが神の御心であると全員を説き伏せ、戦いに出て行くのです。ここには、ダビデが主から聞いたと書かれていますけども、ダビデの従者たちも皆、同じ言葉を聞いたのなら事は簡単だったのです。しかし、聞こえたのはダビデだけだったのです。神の御心かどうかというのは、多くの人に一斉に何か知らせられるということも原理的にはありえますが、そうではない事がほとんどです。ですから、私たちは何かしようとした時に、これは神の御心なのか、と思い悩み苦しむのです。
『 ダビデとその兵はケイラに行ってペリシテ軍と戦い、その家畜も奪い、彼らに大打撃を与え、ケイラの住民を救った。
アヒメレクの子アビアタルが、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエフォドを携えていた。』
アヒメレクは祭司であり、ダビデが助けを求めた人物です。今度はその子アビアタルが、ダビデのもとに逃げて来たのです。
しかし、『ダビデがケイラに来たと知らされたサウルは「神がダビデをわたしの手に渡されたのだ。彼は、扉とかんぬきのある町に入って、自分を閉じ込めてしまったのだ。」と言った。彼は兵士全員を戦いに向けて召集し、ケイラに下ってダビデとその兵を包囲しようとした。ダビデはサウルが自分に危害を加えようと計画しているのを知って、祭司アビアタルに、エフォドを持って来るように頼んだ。ダビデは主に尋ねた。「イスラエルの神、主よ、サウルがケイラに進んで来て、わたしゆえにこの町を滅ぼそうとしていることを僕は確かに知りました。ケイラの有力者らは、サウルの手にわたしを引き渡すでしょうか。僕が聞いているように、サウルはケイラに下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうか僕にお示しください。」主は「彼は下って来る」と言われた。ダビデが、「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」と尋ねると、主は「引き渡す」と言われた。』
助けたケイラの住民はダビデたちを裏切って、サウルに引き渡すというのです。それで、ダビデはそこにいられなくなって、『ダビデとその兵およそ六百人は立ち上がって、ケイラを去り、あちこちをさまよった。』
ダビデは裏切り行為に頭に血が上ってケイラの住民を滅ぼすという選択もあったのですけども、しかし、ダビデはそのような選択をしなかった。彼はその状況の中で、自分が助けた者に裏切られたわけですが、しかしその事だけを見なかったのです。
『 サウルはダビデがケイラから非難したと知らされて、出陣するのをやめた。ダビデは荒れ野のあちこちの要害にとどまり、またジフの荒れ野の山地にとどまった。サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった。
  ジフの荒れ野のホレシャにとどまっていたダビデは、サウルが自分の命をねらって出陣したことを知った。そのとき、サウルの子ヨナタンがホレシャにいるダビデのもとに来て、神に頼るようにとダビデを励まして、言った。「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている。」二人は主の御前で契約を結んだ。ダビデはホレシャに残り、ヨナタンは自分の館に帰って行った。
 ジフの人々は、ギブアに上ってサウルに報告した。』
ある日、ダビデをサウルに売る者が出てきたのです。
『「ダビデはわれわれのもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます。王が下って行くことをお望みなら、今おいでください。王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です。」サウルは答えた。「主の祝福があるように。あなたたちはわたしを思ってくれた。戻って、更に確かめてくれ。ダビデが足をとどめている場所と誰がそこで彼を見たかをはっきり調べてくれ。彼は非常に賢い。彼が隠れた場所をことごとく調べ上げて、確かな情報を持って来てくれれば、あなたたちと共に出て行こう。この地にいるのであれば、ユダの全氏族の中から彼を探し出す。」人々はサウルに先立ってジフに戻って行った。』
追いかけっこも中々結末が付かないので、確実な情報をもって来いとサウルは言うのです。
『ダビデとその兵は砂漠の南方、アラバのマオンの荒れ野にいた。サウルとその兵はダビデをねらって出て来たが、ダビデはその知らせを受けると、マオンの荒れ野にダビデを追跡した。サウルは山の片側を行き、ダビデとその兵は山の反対側に行った。ダビデハサウルを引き離そうと急いだが、サウルとその兵は、ダビデとその兵を捕らえようと、周囲から迫って来た。』
四方八方から囲まれて、絶体絶命のピンチにおちいったのです。
『そのとき、使者がサウルのもとに来て、「急いでお帰りください。ペリシテ人が国に侵入しました」と言った。サウルハダビデを追うことをやめて、ペリシテ人の方に向かった。そのため、この場所は「別れの岩」と呼ばれている。』
ダビデはこのようにしてサウルの執拗な追跡を何度も受けたわけですが、危機一髪ところで逃げおおせたのです。そして、さらに24章では、また、サウルがダビデを追って出てきている状況が書かれています。サウルが用を足すために入った洞窟の中に、先にダビデとダビデに従う者たちが隠れていた。今度は「ご主人様今こそ好機が来ました。これは神があなたに、サウルを渡されたのです。」しかし、ダビデはそうしませんでした。サウルを倒すのにこんな機会はないというような事が巡って来たのです。しかし、ダビデはサウルの上着の端を、ひそかに切り取っただけで、サウルに危害を加えずに逃がした。サウルをそのまま行かせてしまいました。
『しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」
  ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。』
ダビデはこのように自分を従う者たちとも、意見が一致していた訳ではありません。ダビデに従う者たちはいつもダビデの言う事をならなんでも従っていたわけではなかった、むしろダビデに反対している事も度々あった訳です。違う所では「そんな事をしたら負けますよ」また、「前栽一遇のチャンスです。それこそ神の御心です。」とダビデの周りの者たちは言ったのです。しかし、ダビデは「そうではない」それは主の御心とは違うと、周りの者たちを説得したのでした。神に従う人生というのは、決して単純なものではないということなのです。神に従っていれば何でも明らかになるものではないのです。周りの人が自分の考えに反対する時もあります。もちろん、その逆もあります。周りの人たちが、神の御心を知って、自分だけがそうではないという事も起こるのです。私たちは主の御心を知りたいと、誰もが願うのです。そして、今がこの時が主の御心なのかという事を判断するために、私たちが心に留めるのは、周囲の状況なのです。神さまというのは、不思議なことをなさる方で、人の思いを超えたことをなさるかたです。ですから自分の都合のいいチャンスが、状況がそこに出現したとき、「これは神の御心だ」と判断することは、ある意味無理からぬ事です。不思議なことが起こり、状況の流れが自分に追い風がふいていると思えるときに、それに反対して「そうじゃない」と判断するのは、勇気がいるのです。私たちの信仰が試されるのです。
私もいろんな意味で、聖書を読んで考えて来ました。結論から言えば、これが主の御心なんて言ってはならない。そういう事なのかもしれません。でも、これが主の御心だと進んで行くしかないことも多いと思うのです。そして、主の御心であると、私たちが判断して、それに従って行くときに、必要不可欠なことは、私たちが自分自身をどう見ているかだと思っています。
「水は低きに流れる」ということがよく言われます。そのとき私たちの立ち位置が、そこに示されるのです。私たちが何処に立っているのか。
ダビデはサウルをどう見ていたのでしょう。ダビデの言葉によると、ダビデはサウルを「主が油注がれた方」だと見ていたのです。そして、自分の事を何と言っているのかというと、「死んだ犬、一匹のノミ」と言っているのです。そこまで言わなくてもという思いもしますが、そこがダビデのダビデたるゆえんかもしれません。自分自身の小ささや、頼りなさ、その事を示していますけども、それと同時にダビデが知っていたのは、神の果てしない愛計り知れない恩寵、圧倒的な恵みが自分を包んでいる世界に、彼は生きているのです。一方サウルはダビデをどう見ていたのでしょうか。彼にとってダビデは単なる脅威でした。そして、競争相手でした。自分は王であり、ダビデはその臣下としか見なかったのです。サウルは、ダビデは自分の手中にあると思っていた。サウルにとって自分の都合のいい状況によって神の時かどうか判断するしかなかったのです。24章の中でも、
『お前はわたし善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。』
サウルは主が自分をダビデの手に引き渡された。と考えた。状況としてはそのように見える。ダビデの周りの人たちが言っていた事、ダビデはそうは思っていなかった。そのように判断しなかったのです。私たちは状況の中から、今自分に風が吹いている、これこそ神の御心の時だと判断してしまう。そう判断してよい時もあるかもしれません。ですが、私たちはいつでもそのように、状況によって「神の御心なのだ」判断するとしたら、とんでもない所に私たちを導いて行くことになりかねない。先ほど自分自身をどう見ているかどうか、それが大事だと話しました。ダビデは自分の事を「死んだ犬、一匹のノミ」と言いました。
詩篇22編
『指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。
 わたしの神よ、わたしの神よ。
 なぜわたしをお見捨てになるのか。

わたしは虫けら、とても人とはいえない。
 人間の屑、民の恥。
 わたしを見る人は皆、わたしをあざ笑い。
 唇を突き出し、頭を振る。
 「主に頼んで救ってもらうがよい。
 主が愛しておられるなら
   助けてくださるだろう。』
先ほどの死んだ犬、一匹のノミ、このような事をダビデは詩の中で言っているのです。自分の事をそこまで言う必要があるのか。これは自分の事を否定しているのではないのです。
教会ではよく「あなたは神に愛されているのです。それほどに、あなたは神に愛されるように尊くすばらしい存在なのです。」と言います。それなのに「わたしは虫けら、とても人とはいえない。」というなんて、なんて罰当たりな…。ダビデはどうしてその事を言うのか。先ほど言ったように「あなたは神に愛されるように尊くすばらしい存在なのです。」これは誇張でも決して間違いでもありません。神との関係を続けて行く中で、神と神の恵みは私にとってすこしづつ大きくなり、それを分かって行く中で、それに比例して自分自身がいかに小さい者か、私たちは知らされて行くのではないか。信仰の深化、深まり、成長、成熟とは、そういう事を言っているのです。
神さまと私たちとのギャップははるかに大きなものなのです。神さまはそれをものともせず、ご自分の愛情を私たちに注ぎ、ついには御子をも人間の手に引き渡された、それほどの思いを持ってくださったのです。私たちは信仰を持った時には、自分の足で歩み、聖書に聞き、人と出会い、ある時に仕え、ある時には苦しみ、血を流して、それでも私たちが神に従っていく中で、私たちは少しずつ信仰の成長を体験されて行くのです。よちよち歩きの子供が保育園に行き、小学、中学に上がって行くように、私たちもそのようにして、日々成長させられて行く事を通して、私たちはこれが神の御心なのかどうか、という事を判断する力が与えられて行くのではないかと思うのです。
パウロは最初キリスト教に敵対する人でしたけども、彼はクリスチャンになりました。クリスチャンになった後、彼はどうしたか、今度は「ユダヤ人は敵だ」自分たちこそ神の御心を、神の正道を歩む人として、ユダヤ人を敵として見て、排除したかというと、そういう事はしませんでした。それでは前と同じです。パウロでさえこのような視点を獲得するのに一兆一石ではいかなかった、パウロがそれにいたるまで、彼はどれほど苦しんだか。私たちはパウロの手紙を読む中で知らされるのです。
彼は自分の行い、自分のおかして来た事、自分がかつて考えて来た事振り返り、キリストに聞く中でさまざまな恵みを私たちに残しています。ローマの信徒の手紙7章21節
『それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の立法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。』
クリスチャンになってから、彼は自分がどれほど惨めな人間なのかという事を思い知らされた。しかし、そのどん底から
『わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。』といきなり喜びの絶頂へと跳ね上がっています。この節は括弧に括った方が筋は通るのです。
24節から26節へ飛ぶほうが話が分かるのです。でも、自分自身のどうしようもない惨めさを思い知らされたその所で、彼を神の恵みが包んでくれたか気づいて行ったのです。自分の小ささに気づいていくと同時に、私たちは神の恵みの計り知れなさを知って行くのです。それが私たちの信仰の深化と呼ばれるのです。そういう中に私たちは、ダビデが通ったように周りの者が「これが御心です」と言って「それは違う」と言い、何が御心なのか、判断して行く事が出来るように出て行くのです。ダビデの人生は、私たちに良いお手本だと思うのです。皆さんどうぞ、聖書を親しんでいってほしいです。周りのチャンスを生かして、自分で聖書を読み、そして、自分の信仰を深めて行こうという思いが無いと、いつまでも同じ所に留まって堂々巡りをしてしまいます。それは誰もが望まない事です。私たちの信仰が深まって行く事を、神さまだけではなく、この世界が望んでいます。いろんな意味で、これからも大きな恵みと共に、苦しいことや問題が、私たちに示されて行くだろうと思います。そういう中で、何を神の御心として受けて行くのか、その事を私たちはそれぞれの所で主と共に歩み、問いかけ、周りの方々の言葉にも耳を澄まして歩む中で、さらに聖書に親しみ、聖書から聞いていっていただきたいと願っています。

 

お祈りいたします。



2016年7月3日

宣教「歴史を導かれる神」
サムエル記上16章1~13節


聖書箇所
16:1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」

16:2 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、

16:3 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」

16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」

16:5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。

16:6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。

16:7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

16:8 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」

16:9 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」

16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」

16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」

16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。


メッセージの要約

今日から旧約のサムエル記からメッセージを受けていきます。
「歴史をみちびかれる神」という題をつけました。
神は人に自由な意志を与え、それをもって神に従っていくことを願われました。
しかし人間はその自由をもって神に逆らうという道を選んでしまいました。そのことにより様々な苦難を自らに招いたのです。ひと言で言えば、旧約聖書は人間の失敗の歴史ということもできます。

なぜ人は神に逆らったのでしょうか?
イスラエルの歴史を世界中の人々が見ています。しかしその歴史は人間の争いと失敗の連続であるとすれば、それが公開されているということはある意味では世界中に恥をさらしているともいえます。
イスラエルの王国の中で、王になった人々も全員が神さまに従うことに躓きました。
しかし、そのような中でも神さまは人間をけっしてあきらめられませんでした。神さまが赦されたのは7の70倍どころではありませんでした。神さまは心を痛めながら、人間が神さまのものに戻ることを願い続けておられます。イスラエルの歴史を学ぶことで、今に生きる私たちにとってそのことを学ぶことができます。

さてイスラエルの歴史はアブラハムから始まります。そして3代目ヤコブのときに飢饉が激しくなってエジプトに身を寄せます。それからエジプトにいた430年の間に民族と呼ばれるに足る力をもつようになります。その後モーセに率いられて出エジプトがあります。約束の地カナンへは一ヶ月でいけるところを神にそむいたためになんと荒野を40年さまようことになりました。その後やっとヨシュアに率いられカナンの地へ入りました。そして12部族それぞれに嗣業の地が与えられました。
国づくりを進めていく中で、幾度となく近隣の諸民族との戦いがありました。そんな中から周りの国同様、一つになって隣国に当たるために王を立てる要求が高まります。
民が王を求めた様子はサムエル記上8章1~5節にでています。民が王を立ててほしいという願いはサムエルの目には悪と映りましたが、神は彼らの言うようにしなさいと言われます。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。」色々人々は理由づけをしているが彼らの心は神から離れていたことをご存じだったのです。荒野をさまよっていたときには、神が神のパンであるマンナと、肉であるうずらをもって養い、また火の柱、雲の柱をもって人々を導かれました。しかし、カナンに到着し、神さまが親としての任務を終えられた途端、人々は神さまから離れていったのです。自分で食料を得ることができ、さまよう必要もなく神さまに守ってもらわなくても自分で何とかできるようになったからです。
しかし、人間、心の中に不安や恐れがあると、それを自分でなんとかしようとして、それが神に背くと分かっていながら、時として神に反することをするのです。
サウロがそうでした。サウロはイスラエルの歴史の中で初めて王として選ばれた人でした。非常に美しく背も民のだれよりも肩から上の分だけ人より高かったと書かれています。しかしある時、神の命令に背いて戦利品をかすめ取るということをしたために王位から退けられることになります。預言者サムエルを通して神は過ちをおかしたサウロにこう言われます。「あなたは自分の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエ諸部族の頭ではないか。主は油を注いであなたをイスラエルの上に王とされたのだ」
神はサウロの心の中を既にご存知でした。自分に足りないものがあると思っていることを、そのための不安や恐れがあることを。不安や恐れによりなんとかしようと自分自身で動いて神に反することをしてしまうのです。それは私たちの罪と結びつくものです。私たちはどうしても表面に見えるものにとらわれてしまいがちです。
しかし神は私たちの不安や恐れをご存じの上で私たちを愛して、私たちを守り、ご自身に従うように導かれているのです。

今日の箇所はそのサウロに代わって新しい王が油を注がれて選びだされるところです。
サムエルはエッサイの息子たちの中から新しい王を選ぼうとしていますが、最初サムエルは身目麗しいエリアブに目をとめ彼こそ主の前に油注がれる者だと思います。
しかし、神は言われます。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
今日はこの言葉を覚えて帰ってほしいのです。
人は人の目をひくようなものにひかれますが、しかし神がのちに立てられたメシアはどういう容貌をしていたのでしょうか。それはイザヤ書53章に書かれています。
「わたしたちの聞いたことを誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根からはえ出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格もなく、好ましい容姿もない。」そして十字架上で「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。」ものとして死んでいかれたのです。イエスを見て、人々はこんな人間がメシアであるはずがないと思ったのです。こんな人が神の子であるはずがないと思ったのです。しかしそのように生き続けたイエスから命の泉がわき続けているのです。十字架につけられたイエスがキリストであり、イエスこそが命の源である。神は今も変わらずイスラエルの人達が味わったのと同じ祝福をイエスキリストを通して私たちにくださろうとしているのです。
アブラハムから始まってイエスまでをまとめましたが、歴史の中で私たちは神に出会い、それぞれの人生の中で神はご自身を表していかれるのです。その時に私たちがどこに目を向けようとするのか、うわべではなく、心の奥を見られる神の眼差しを心に刻んでいくときに、何が真実であるのか、どこに寄り頼むべき祝福があるのかを知らされていくのではないでしょうか。

 

祈りましょう。



2016年6月26日

宣教「闇を照らす一条の光」
ヨハネによる福音書9章1~3節


聖書箇所


メッセージの要約
ヨハネ福音書から黙示録と読み進んできたわけですが、最後にここだけは味合わっておかないと、どうしても終われないと思いますので、ヨハネの中でも、最も有名で、それゆえに多くの解釈が存在する箇所を、もう一度味わいたいと思ったのです。この聖書の箇所を読んで、見なさんどのように感じられましたか。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」私たちは自分に悲しい事や、悲惨な事が起こると、なぜこんな事が起こるのか、どこに原因があったのかと、答えの出ない問の中をぐるぐると際限なくめぐる、そういう経験されたことがおありと思います。日本には自分の身に辛いことが起こると、高いお金を払って、お祓いをしてくれる人の所に行って、除霊してもらったと問うような記事が週刊誌に今だに載るのです。私たち誰もが、人生で良いことも悪いことも様々な経験をします。辛い経験をしたときに、それを過去に亡くなった知人とか、有名人の霊のせいにしたい気持ちもわからないではありません。しかし、これで、本当に効果があるのか。本当には分からないですけども、原因を自分以外のものに見出して安心したり、本当に目を向けなれければならないところに目をつぶったり、そういう部分が私たちにもあるのではないでしょうか。普通に日本人として育っていれば、そういう所が自然と体に染みついていると言えるかもしれません。宗教に関係なく、育ったとしても、いろんな出来事が起こった時に、私が悪いから、何か間違った事をしたから、と思っている人もいるのではないでしょうか。何としても原因を探さないと、落ちつかない。それが人間の持つ弱さなのかもしれません。
今日読んだ聖書に出てくる人は生まれつき目が見えないという、その事だけでも、しんどい思いをしているのです。そうなったのは、この人が悪いからですか。親が悪いのですかなんて、その人の面前で普通は言いません。しかし、私たちに代わって、そして私たちの中にも抜きがたくある疑問を明らかにする為に、神さまは弟子たちの口を通してそれを明らかにされたのだと思います。イエスさまは何と答えられたでしよう。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に表れるためである」責任はそんな所にはないと、つまり因果応報と私たちはよく言いますが、この人の目が見えないこととその人の罪や周りのものの罪とは何の関わりもないとイエスさまははっきりおしゃいました。しかしね因果応報によって縛られている人が世界には多くいるのではないかと、思えるのです。
私がまだ神学校に行く前ですけども、教会で同じ箇所を牧師がメッセージした時に、隣に座っているご婦人が、牧師の「この世に因果応報という事はないです」と言った時に、そこから、メッセージが終わるまでご婦人はずっと泣いておられました。私はメッセージ所ではなくなって、どうしたら良いのか、おろおろしながらその人を見ていた事が、今でも思い浮かぶのです。ところが次にその方が例はいに来られたらメッセージの間ずっとすやすやと寝ておられました。私はその変わりようにもう一度びっくりさせられました。すぐにはわからなかつたのですが、後になって牧師からその理由を聞かされたときなるほどと思いました。「先生、あの方、先週は泣いていたか思っていたら、今日はすやすやと寝ておられました。いったいあの方は何なんですか。」との私の質問に、牧師がその訳を教えてくれました。その方のご主人の親戚も、ある宗教に入っていて、何か自分たちの一族に不運の事が起こると、「おまえが信じていないから悪いんだ。」と責められ、改宗せずにいることが悪のように言われ続けてきたというのです。それで、家でゆっくり休む事ができなくなり、「すべて悪い事が起こるのは自分のせいなのだ。」と自分を責めるようになって夜も眠れなくなったというのです。だから「僕が因果応報なんてない」と言った時は本当に安心たというのです。いかに私たちが「原因は何処にあるのか」、そういう考えにとらわれて、そして、その言葉にがんじがらめになった時に、持っているエネルギーを費やしてへとへとになってしまう様子がよくわかります。
イエスは「神の業がこの人に表れるためである。」と言われました。悲惨な出来事や辛い出来事が起こった時に、皆さんもクリスチャンになってから、この言葉を思い出されると思います。この悲惨な中で神の業が表れると言うのはどういう事なのか。東北の大震災が起こった時に、ノンクリスチャンの方が、「キリスト教では、この悲惨な事が起こった時に、そこに、神の業が表れるためと、言うそうじゃないか。どこに、神の業が現れているのだ。キリスト教はいいがげんな事を言う。」そう言ってその人は激しく怒られたそうです。私たちは因果応報という事はないのだ。分かっていても、それでも、すべての謎が解けた訳でも、多くの人の心が癒されるという事でもない。イエスさまだけがこの言葉を言える方なのです。私たちはイエスさまに信頼することを選び取って行く時に、私たちの思いもしないような方向に導かれて、「神さまがいらっしゃるのになぜこんなことが・・・」と、思うような事も、神の業が表れるのはこういう事だったのかと、あとになって体験させられ、知らされるのです。
「翼をください」の作詞をした山上路夫さんをご存知ですか。山上路夫さんという方は、小学校4年生くらいから高校くらいまで、小児喘息で、学校を三分の一しか行けていない方なのです。私より20歳ぐらい上の方ですけども、遊びざかりの時に、自分独り暗い家の中にいて、天井を見つづけていなければならなかったのです。きっと自分の死を意識し、それと向き合い不安と悲しみに押しつぶされそうなときもあっただろうと思います。そういう人生を歩んできた方だからこそ、「翼をください」と、強く願われたのではないかと思います。布団の中に入って何処にもいけない。他の人が感じられる世界のすばらしさ、そして、少年時代の経験のすばらしさが、体験できない悲しさ、辛さ。しかし、それを単に避けるべきもの、無意味なものとされなかったのです。その思いが様々な縛りの中で息苦しさを感じている人々の心に強く響くのではないかと思います。
生まれつき目が見えないという事が、この男の人をどれほど縛りつけて来たか。でも、私たちもいつも何かに縛られていませんか。健康だけでなく、心の弱さに怯えている。自分の意思の弱さに、そして、優しさのなさに、いつも怯えて悲しんでいる。あるいは、自分の健康の事が気になって、その事でエネルギーを使い切っている。私たちは、皆いろんな形で、自分のこだわりの中にうずくまって、身動きが出来なくなる。そして、何で自分はこうなのかな、あの人のようではないのかな、そんなふうに思って、答えのない中で、堂々巡りをする私たちに、イエスさまは「誰の因果が現れている訳でもないのだ。神の業があなたの上に現れるためなのだ。」と、そうおしゃてるのです。何度も言いますけども、いろんな苦しみが起こるときに、どうしてこんな目に遭うのか、私たちは自然とそんなふうに思ってしまいます。でも、因果関係が説明ついたとしても、それがどうなのだ。と、イエスさまはおしゃってると思うのです。また、この人に神の業が起こるのかどうか。皆で高みの見物といこう。そういう事でももち路にありません。イエスさまはこの言葉で呼びかけられているのです。『神の業のために一緒に働こう、ここにおいで、私の手を取って、私と一緒に生きて行こう。』そう言われるのです。私をお遣わしになった父なる神の業にあなたも加わってほしい。私たち一人一人に誰もがイエスさまから呼びかけられているのです。だいたい高みの見物をしていったい何になるというのでしよう。神の業が起こるのを確認で来たら信じましょうではなくて、『わたしの働きの中にあなたから飛び込んできてほしい。どうか私の言葉に従ってほしいと』、そう私たちは皆招かれているのです。私たちは従って行きたいと思う、そのすぐそばで、それに対抗するように声が起こってくるのを体験するでしょう。「自分には能力も、体力も、財産もない」、そんな言い訳がたくさん起こってきます。そうやって、イエスさまが届けて下さっている光に自分から背を向けて、自分の世界にうずくまってしまうのですか。いくら目が見えていても、私たちの心の中がいかに暗いか、私たち自身が一番分かっているはずです。イエスさまはその事を、この箇所で示しています。世界だけではなく、私たち自身の心の中にある暗闇の中にもイエスさまの福音の光はすでに届いているのです。私たちはそれをしっかりと受け入れて、その言葉を感謝して従って行く、そのことが私たち一人一人に問われているのです。
今日、詩篇93篇読みましたけども、この詩篇をイスラエルの人たちが口ずさんだ時、彼らも『この暗闇の中からどうやつて逃れられるというのか』、そういう混乱の中にありました。何処で分かるかと言うと、
「主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。
潮は打ち寄せる響きをあげる。
大水のとどろく声よりも力強く
海に砕け散る波」
自分のいるところを、海の波のように圧倒的な力を持った軍隊が攻めて来て、自分たちが滅ぼされる、そういう状況がここでイメージされているのです。自然の持つ圧倒的な力を私たちは時々見せつけられます。さらに私たちは時々押し寄せてくる運命の波に、ただ呑まれるしかないと思われるときに、詩篇はこう言うのです。『どんな大波が私のはるか上を超えていこうとも、世界は神の御心により固くされて、けして揺らぐ事はない』と。何百年にもわたる歴史の中でそのことを体験してきた人々が詠んだ詩編の言葉だからこそ、それを口ずさむ人たちは、自分の受けている試練の中で同じように主を信頼することを選びとることを促されるのです。そうやって主への信頼を苦しみの時に日々新たにして行ったのです。「主よ、あなたの定めは確かである」いろんな事が崩れ去って行く私たちのただなかで、『あなたの定めはけして変わることはない。』との言葉は何と頼もしいことでしょう。だから、そういう神に私たちは目を向けて行こう。イエスさま、父なる神に信頼して行こう。たとえ目の前に広がる荒れ野が、混乱に満ち、巨大で果てがないと思われても、イエスさまは、神の業を表して下さる。だから、神さまに信頼しよう。そのように、ヨハネによる福音書、黙示録は、私たちに語りかけているように思うのです。皆さんイエスさまを信じて歩みだしてください。いつ、何処からでも、今からでも出来るのです。今日からその道は始まっています。皆さんの心の中に届いている、神さまの光にご自身を向けて、イエスさまが差し伸べられている手を、しっかり握って歩みを始めていただきたい。そう心から願っています。

 

お祈りいたします。



2016年6月12日

「固く立って動かされず その7」
ヨハネの黙示録22章1~17章


聖書箇所
22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、

22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。

22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」

22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。

22:11 不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。

22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。

22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

メッセージの要約
黙示録を読んでみてつくづく神の言葉は命の言葉だと思いました。
私たちは神の国に向けて旅をする旅人であります。
旅の先にここに書かれているような世界が待っていると信じて日々を過ごしていくのです。
22:2には「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって」と書かれています。これはまさしく創世記にあったエデンの園にあった木と同じです。人は罪を犯したことによりそこから追放され、その時から人間の放浪の旅が始まったのです。

クリスチャンになりたての頃、大きな聖会で一人の婦人から「あなたは救われましたか?」と聞かれたことがあります。その時は「一応バプテスマは受けましたが、、、、」と答えましたが、「はい」と胸を張って言えない自分が確かにいました。
しかしパウロでさえ、最後まで信仰を守り通せるかという問いに、はいと言えない自分を自覚していたと思えるのです。(コリントの信徒への手紙1 9:27「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」)
パウロは以前はクリスチャンを迫害する者でした。それがイエスと出会いそれまで確かだと思っていたものがひっくり返されたのです。引っくり返ったからそれでそのあとずっとそのまま行けるかと考えた時、彼には自分の弱さがよく見えていたので、もう決して引っくり返ったりしないとは言い切れなかったのだろうと思います。
だからフィリピの信徒への手紙でも「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自信は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標も目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリピ3:12~14)と言っています。

私たちのキリストとの結びつきはまだ不完全です。なぜなら私たちの側に、キリストに従うことと、拒否することの判断が与えられているからです。
マタイによる福音書10:22にも「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と言われています。「あなたは信仰告白をして、バプテスマを受けたから間違いなく天国へ行ける」とは言われていないのです。

黙示録にでてくる7つの教会も(黙示録はその7つの教会に宛てた手紙です)迫害を受けていただけでなく、信仰を捨てる誘惑は間断なくキリスト者に押し寄せてきていました。
これは私たちも同じです。

イエスは私たちの最終目的地、また宿屋でもあり、巡礼の旅の同行者でもあります。
それでも私たちは気を緩めるわけにはいきません。安全な目的地に全員が着くと確約されているわけではないからです。そのようなことがわかってきた今なら「あなたは救われましたか?」というあの婦人の問いに「はい、救われつつあります」と私は答えると思います。

旅を続けていかねばならない私たちにとって、究極的には祈りはただ一つです。「主よ来てください。あなたの命の水を今日わたしに飲ませて下さい」ということです。それなしに人生を生き抜くことはできないからです。
そのために黙示録が人々に求めていることは「礼拝を守りなさい」ということです。
天使も言っています。「神を礼拝せよ。」(19:10、22:9)
ヨハネに黙示録が与えられたのは、日々怖れと不安と闘っている者に対して、神さまが神の国の前味をちょっと味合わせて下さるためだったということが言えるかもしれません。神戸牛を食べたことがある人なら「それを食べたいか?」と問われたとき、すぐさまその味を思いだし「はい、食べたい」と答えるでしょう。ヨハネの教会の人々も、この黙示録の言葉を聞くことによって、神の国の到来を待ちこがれる思いが強められ、「マラナタ・主よ来てください」との祈りを口ずさんだのだと思います。
マラナタは「主よ、来てください」という意味です。
わたしたちも主の晩餐式のときに歌いますね。
キリストの十字架の犠牲によってこの地上にもたらされた救いに預かるものとなったので、それを記念するために主の体なるパンと主の血の象徴である葡萄酒をいただくのです。主が再び来られるときまで…。主の憐みがなけれは私たちの生活は立ちゆかないものであることを心に刻むのです。イエス様は毎回毎回わたしが来るまでこれを繰り返せと言われました。そこに命があって、そこに教会のすべてのすべてがかかっているからです。
私たちは今日も、この一週間も、これからも旅を続けていきます。一日一日が主と共なる旅路です。主は待ってもおられますし、私たちと共に歩いておられます。でも主が共におられるからと言って、私たちの人生から苦難や誘惑、試練が消えてしまうわけではありません。その時、その時、主に祈りつつ一つ一つ選択をしていかなければならないのです。
だから最後まで耐え忍ぶ者は救われる、耐え忍ぶために主は礼拝を与えてくださったのです。
ですから霊と真を持って礼拝をしなさいというのはそういう意味も含まれているのです。
どうぞ日々の祈りの中で「主よ来てください。そしてあなたのもとから流れる命の水を十分に飲ませてください。そして私たちを力づけ、私たちの証をあなたの証となさって下さい」という祈りを口ずさみましょう。
それを今週一週間の祈りとして行きましょう。




2016年5月5月15日

「固く立って動かされず その7」
ヨハネの黙示録22章1~17章


聖書箇所

22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、

22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。

22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」

22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。

22:11 不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。

22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。

22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。


メッセージの要約
黙示録を読んでみてつくづく神の言葉は命の言葉だと思いました。
私たちは神の国に向けて旅をする旅人であります。
旅の先にここに書かれているような世界が待っていると信じて日々を過ごしていくのです。
22:2には「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって」と書かれています。これはまさしく創世記にあったエデンの園にあった木と同じです。人は罪を犯したことによりそこから追放され、その時から人間の放浪の旅が始まったのです。

クリスチャンになりたての頃、大きな聖会で一人の婦人から「あなたは救われましたか?」と聞かれたことがあります。その時は「一応バプテスマは受けましたが、、、、」と答えましたが、「はい」と胸を張って言えない自分が確かにいました。
しかしパウロでさえ、最後まで信仰を守り通せるかという問いに、はいと言えない自分を自覚していたと思えるのです。(コリントの信徒への手紙1 9:27「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」)
パウロは以前はクリスチャンを迫害する者でした。それがイエスと出会いそれまで確かだと思っていたものがひっくり返されたのです。引っくり返ったからそれでそのあとずっとそのまま行けるかと考えた時、彼には自分の弱さがよく見えていたので、もう決して引っくり返ったりしないとは言い切れなかったのだろうと思います。
だからフィリピの信徒への手紙でも「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自信は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標も目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリピ3:12~14)と言っています。

私たちのキリストとの結びつきはまだ不完全です。なぜなら私たちの側に、キリストに従うことと、拒否することの判断が与えられているからです。
マタイによる福音書10:22にも「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と言われています。「あなたは信仰告白をして、バプテスマを受けたから間違いなく天国へ行ける」とは言われていないのです。

黙示録にでてくる7つの教会も(黙示録はその7つの教会に宛てた手紙です)迫害を受けていただけでなく、信仰を捨てる誘惑は間断なくキリスト者に押し寄せてきていました。
これは私たちも同じです。

イエスは私たちの最終目的地、また宿屋でもあり、巡礼の旅の同行者でもあります。
それでも私たちは気を緩めるわけにはいきません。安全な目的地に全員が着くと確約されているわけではないからです。そのようなことがわかってきた今なら「あなたは救われましたか?」というあの婦人の問いに「はい、救われつつあります」と私は答えると思います。

旅を続けていかねばならない私たちにとって、究極的には祈りはただ一つです。「主よ来てください。あなたの命の水を今日わたしに飲ませて下さい」ということです。それなしに人生を生き抜くことはできないからです。
そのために黙示録が人々に求めていることは「礼拝を守りなさい」ということです。
天使も言っています。「神を礼拝せよ。」(19:10、22:9)
ヨハネに黙示録が与えられたのは、日々怖れと不安と闘っている者に対して、神さまが神の国の前味をちょっと味合わせて下さるためだったということが言えるかもしれません。神戸牛を食べたことがある人なら「それを食べたいか?」と問われたとき、すぐさまその味を思いだし「はい、食べたい」と答えるでしょう。ヨハネの教会の人々も、この黙示録の言葉を聞くことによって、神の国の到来を待ちこがれる思いが強められ、「マラナタ・主よ来てください」との祈りを口ずさんだのだと思います。
マラナタは「主よ、来てください」という意味です。
わたしたちも主の晩餐式のときに歌いますね。
キリストの十字架の犠牲によってこの地上にもたらされた救いに預かるものとなったので、それを記念するために主の体なるパンと主の血の象徴である葡萄酒をいただくのです。主が再び来られるときまで…。主の憐みがなけれは私たちの生活は立ちゆかないものであることを心に刻むのです。イエス様は毎回毎回わたしが来るまでこれを繰り返せと言われました。そこに命があって、そこに教会のすべてのすべてがかかっているからです。
私たちは今日も、この一週間も、これからも旅を続けていきます。一日一日が主と共なる旅路です。主は待ってもおられますし、私たちと共に歩いておられます。でも主が共におられるからと言って、私たちの人生から苦難や誘惑、試練が消えてしまうわけではありません。その時、その時、主に祈りつつ一つ一つ選択をしていかなければならないのです。
だから最後まで耐え忍ぶ者は救われる、耐え忍ぶために主は礼拝を与えてくださったのです。
ですから霊と真を持って礼拝をしなさいというのはそういう意味も含まれているのです。
どうぞ日々の祈りの中で「主よ来てください。そしてあなたのもとから流れる命の水を十分に飲ませてください。そして私たちを力づけ、私たちの証をあなたの証となさって下さい」という祈りを口ずさみましょう。
それを今週一週間の祈りとして行きましょう。



2016年5月8日

ヨハネの黙示録12章1~18節


聖書箇所
ヨハネの黙示録12章1~18節


メッセージの要約
この黙示録の12章には竜が登場します。竜の使いと大天使ミカエルとその使いが戦ったとあります。ここまでくるとファンタジーですよね。パウロがアテネで説教をした時にイエスさまの復活の話になったとたんアテネの人々が去っていった話を思い出しませんか。そんなありえない様な話を聞かされても、現実の事なら分りますが天での戦いにどう言う意味があるのか?先ほどファンタジーと言いましたがこの話はもちろんファンタジー的な語り口で話されていますが、でもファンタジーは決して単なる空想を語っているわけではありません。そこに人生の真実がおりこまれているからこそ、幾世代にもわたって語り継がれてきたのですから。おとぎ話や昔話という物が無かったら私たちの人生は殺伐としたカラカラの乾ききった物になっていたでしょうね。

生前イエスさまも例え話を用いておられましたが、その題材としてイエスさまが用いれたのはカラスであったり辛子種であったり豚であったり、普段人々が目にする物でした。しかしここでは竜とかが出てくる。それによってしか表せれない、強大な物、計り知れない邪悪さが込められているのです。竜が必ずしも邪悪と言えるか疑問かも知れませんが、そう言う形で象徴される物、そしてその時代この話を聞いていた教会の人達はそれが何を意味するか一目瞭然で理解していました。以前からお話ししていますが、当時の教会の人達は、ただでさえ天災であったり飢饉であったりそのような事が繰り返し起こってる状況の中で、同胞のユダヤ人達からも攻撃され、権力者であるローマからも厳しい圧力を掛けられていたわけで、無力な剣も持たない軍隊も持たずイエスを信じその御言葉をもって生きている生き方が、いかに権力者によって無残に踏みにじられていったか目の当たりにしていたのです。火あぶりにされ殺されたり、あるいはライオンのいる穴に落され殺されたり本当にあった話なんですね。そのような本当に人間業とは思え無いような迫害の中にキリスト者は置かれていた。その中にあって自分たちが現実に戦っている、直面しているこの試練に本当に意味があるのだろうか?これは恐らく皆さんも人生の中で何故自分がこの様な苦境に立たされるのだろうか?そういう状況に立たされたと気誰もが問う問いなのではないでしようか。

ファンタジーの中に竜は良く登場するのです。日本の昔話でも竜は登場するのですが、皆さん「竜と鶏」と言うお話をご存知ですか?ある日竜が女の人の姿になって貧しい医者の所に来るわけですよね。そして耳の中に何かがいるという事で、医者に診てもらったところ、その女の人の耳の中にムカデがいて暴れているんです。そこで医者はこの女の人は只者では無いと思って「治してあげるから貴方も本性を現しなさい」と言いました。そうしたら女の人は竜になるわけです。そしてあらためて竜はお医者さんに頼むわけですが、お医者さんは鶏を連れて来て竜の耳の中に入れるてやるわけです。そして竜の耳の中で鶏とムカデの格闘がありまして最終的にはムカデを咥えて出て来て治療は成功し竜はお医者さんにお礼を言って去っていくのであります。面白いでしょう?皆さん。

また竜から少し離れますが皆さんシンデレラと言うお話を知ってます?フランス語では「サンドゥリヨン」と言うのですが、これは灰被りと言う意味なのですね。ディズニーのアニメでしかこのお話を知らないと、このシンデレラを虐めるお母さんは継母となっていますよね。でも原本ではつまりオリジナルは実のお母さんなんです。後代の人は実のお母さんがそんな娘を虐めるなんてあってはいけない。それは道徳的にもこのストーリーは良くないという事で書き換えられたんですね。中世辺りに。でもね、今皆さん毎日児童虐待の話を聞くでしょ?やっているのは継母ではないですよね?実の親ですよ。シンデレラのお話もそうですが昔話は何を伝えようとしているかと言うと、人間と言うのは決して神でも悪魔でもないけど時には、そのような本性を持っている恐ろしい物になる、母でさえ実の子供をその様に扱う可能性があるという事です。

灰谷美代子さんと言う日本のファンタジー作家が居られますけど、「竜ノ子太郎」と言う童話を書いておられます。これは現代の新しい童話ですけど、この童話に出てくる竜は、実はあるお母さんが村の禁を犯して入ってはならない所に入って食べ物を食べてしまったために、罰として竜にされてしまうんですね。竜になった後、子供を産むのですがその子供はドンブラコと川を流されて、あるお婆さんに拾われるわけですが、その子供は光る玉をもっていたんですね。その子供は光る玉を舐める事で泣きもせず良い子に育っていくのですけれども、その球が段々と小さくなって消えてしまって子供は泣き止まくなり、仕方なくお婆さんは竜の所に連れて行くわけです。おばあさんは竜にこの子を泣き止まして欲しいとたのむと、竜はどうしたかと言うと目の玉をくり抜いてその子にあげたんですね。最初に持っていた玉と言うのは竜の片目だったんです。でもう一つの目を与えてしまったために、その竜は盲、つまり目が見えなくなってしまうんです。母親って言うのは子供の為にその位犠牲を払うって言うね、そういう事がこのお話の一つのテーマでよね。だから実の子にたいしてもあのような虐待をするし、またある時は本当に子供の為には自分のあらゆるものを投げ捨てと言う姿、どちらかじゃ無いのです。どちらにもなりうるのです。

だからもしファンタジーと言う物が無くなってしまったら、私たちは人間と言う物の理解や或いは人生の素晴らしさ、過酷さ、奥深さ、そう言う物全てを失ってしまう事になるんです。人間と言うのもが如何なるものか、人生の複雑さや広がりや私達の人生の喜びや悲しみ痛みと言うものを、ファンタジーや昔話はそれとなく私達に教えてくれるのです。説教臭くじゃなくね。

今日この聖書の箇所を読んでみると「なんだこれは」と思われるかも知れませんが、ここには正に黙示録の示すもう一つのクリスマスの出来事が記されているんですね。クリスマスと言うと、ルカによる福音書かマタイによる福音書しか書かれてないと思っておられるか知れませんが、この12章はまさしくクリスマス出来事の背景にある物語を物語っているんです。

普段、私達が目にするイエス様はヨセフとマリアとの間に色んな出来事があって最終的に生まれるのだけれども、しかし貧しい家畜小屋で生まれ最後にはエジプトにまで行かなければならなかった、そう言う流れを知っていますけども、その地上での出来事の背後に壮大な言ったら良いのでしょうか言葉がありませんけれども、しかしそれは天の世界で実はもう一つの戦いがあったという事なんです。それは現在にまで続いている物なんだ。竜が現れますけれども、どんな姿をしていたか書こうにも書けない状況が続いていますが、しかしその力の強大さは、天の星の3分の1を掃き寄せて地上に投げつけた。天の星の3分の1が真っ暗闇になる様なそんな力を持っていたという事です。竜は女が子どもを産んだらその子を食べようとして待ち構えていた。女ごと食べてしまえばと思うのですが、しかしこの竜は子どもだけを食べる、つまり正に人類に絶望を与えようとするならば、一番その喜びの瞬間に奪うのが最も効果的でまりますから、そのような事をしようとしていたのです。しかしその男の子は天に上げられ、玉座へ上げられた。女性も穴に逃げ込んで無事であった。しかしそれだけでは終わらなかった。天ではミカエルとその使い達が竜に戦いを挑んだ。竜とその使い達も応戦したが勝てなかった。そして最早天には彼らの居場所は無くなった。その巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わすものは投げ落とされたのです。

皆さんイエスさまのご生涯の中で12弟子を派遣するときにですね、こんな出来事があったのですね。彼らが派遣されて帰ってきた時に、『わたしは天からサタンが投げ落とされるのを見た』と書かれた場所があるので皆さん探して見て下さい。本当にこの黙示録と言うのは、ただ黙示録だけの物語ではなくて、やっぱり福音書や新約聖書全体と非常に深く関わっている書物であります。その使い達諸共投げ落とされた。私達は天で大きな声が次のように言うのを聞いた。今や我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟達を告発する者、昼も夜も我々の神のみ前で彼らを告発する者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、子羊の血と自分たちの証の言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。兄弟達は子羊の血と自分達の証の言葉とで彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。この兄弟達と言うのは、ミカエルとその使い達の使い達と同じ意味なんですよ。だからその天での戦っている使い達とつまり、天での戦いと地上での教会における、イエス様を信じそれに従う人達の戦いと言うのが同時に入り込んで記されているのです。

天でどんな戦いであったのか想像するしかありませんが、地上において主にある教会の人達の戦いはその人たちが持っている武器は、子羊の血と自分達の証の言葉で戦ったんです。武器じゃ無かったんですよ。剣とか鎌とか鉄砲とかじゃ無かったんです。向かってくる者はつまりローマの人。時の権力者は彼らを剣で動かし、脅し傷つけていったんですよ。彼らはそれに対しても子羊の血と自分達の証の言葉とで戦ったんです。それが教会の歴史なんです。でも教会の中には教会自身が剣をもった時代も確かにありました。十字軍と呼ばれるそう言う出来事も確かに起こったわけであります。そしてある時は魔女裁判であったり、人々を剣によって脅したりして従わせようとしたりした。信仰と同時に聖書だけでなく剣をもって同じように人々を支配していたという歴史が教会の中にも確かにあるわけですけども、しかし本当に私たちが成すべきはそうでは無くて、私たちの戦いは子羊の血と自分達の証の言葉で戦っていくというのです。

まぁこの世の人達から見れば、信仰なんてこの世の権力に何の役に立つのか?そう言われると思います。確かにそうでありますね。見た目には如何にも弱弱しい。イエス様の十字架なんて、十字架に掛かるよりもっと偉大な力を示して、空を飛んでみたり奇跡を起こしたり、そんな方法だってイエス様にはあったわけであります。そしてその機会があったしそれを選び取る事もイエスさまには出来たのです。あの悪魔による荒野の誘惑の時に。しかしイエスはその事を選ばれなかった。自身が苦難を受けて十字架に掛かる道、神の言葉にのみに立つ道を行かれました。そして神の言葉で悪魔の誘惑に勝って行かれたように。私達もそのイエスさまの弟子ですから、どんな状況になったとしても、私達に与えられているのは、イエスさまが私達の為に血を流してくださった、命を捧げて下さった事実と聖書の御言葉ですよ。これだけが私達の武器なんです。竜はここでこの生んだ女性を様々な形で追跡します。つまりこの女と言う言葉が表しているのは、地上の教会の事ですよ。本当に悪しき勢力、権力が教会を迫害しそして、追い詰めていこうとした。しかし女性は神の力に守られて竜でありそして蛇ある者から守られていった。そしてなぜ竜が怒ったかと言うと、その残りの者達が神の掟を守ってイエスの証を守り通したからですよ。それで戦ったからなんですよ。剣を持ったり、この世がやっている方法で戦おうとする時に悪しき勢力は逆に喜ぶわけです。「良いぞ良いぞもっとやれ」と。そうすればお互いに傷つき合う事は分り切っているわけですから。

しかし教会はこの物語の中から、本当に私達が目にしている現実の背後でどんな大きな神の戦いが起こっていたか、そしてそれが最終的にすでに決着が着いていることを知らされていたのです。竜には残された時間が少ない、残された時が少ないのを知ったと書かれていますけどこの12節の終わりの所にですね。だから本当にこの地上に落された竜は焦っている。そして最終的には勝利が下ってしまったのだけれども、ここで何とか一矢報いるため必死にやっているわけですが、しかし私達が神の教えに生き、そして証の言葉を私達が手放す事がないならば、私達に勝利が訪れないなんてことは決して無いんですね。キリスト者の勝利の人生とは正にその事なんです。別に事業に成功したり、病気が治ったり、若々しくなったりそんな事で勝利するでは無いのです。私達はその戦いの中で確かに疲れ果てるんです。だってイエスさま自身が、私達の師匠があんなに苦しんで十字架にまで掛けられたんですから、なのに私達が楽な人生を歩めると思う方が間違いですよね。だけどどんなに大変な状況の中に置かれたとしても、私達に最終的な勝利は決まっているんだ。竜は焦って何とか挽回しようと色んな事を画策します。私の隣人の所へ行って色んな事を吹き込むかも知れない。そしてそう言う人を用いて私を動かそうとするかも知れない。皆さんの所にも起きうる事ですよ。起こっている事だろうと思います。時の権力者を動かしたりして色んな状況、各国を動かしたりして。しかし私達にとって寄って立つべきものは子羊の血と証の言葉これのみなんです。そこにのみ本当に私達の命と、そして私達の勝利がかかっている。このヨハネの黙示録を読み進めて来てこの12章に来た時に、最初はそんな風に「あー他の書物をやば良かったかなぁ」と最初は思った私ですが、今まで自分が散々説教で聞いてきた事がやっと納得した思いがしました。本当にこの私達に12章が伝えようとしているメッセージは、喜びと励ましと希望に満ちたメッセージなんです。初代教会の人達も本当にどんな苦しみの中にあっても、もう既に私達は世に勝っているとイエスが言われたその事はこの事だったんだ。そして私達の戦いと言うのは血肉に対する物では無いと週報の中に書きましたが、これは皆さんエフェソ6章12節の言葉です。書き留めてエフェソ6章12節を家に帰って見てみて下さい。

私達の戦いを本当にここで初代の教会の人達が戦っていった様にイエスの十字架にしっかり繋がって、そしてイエスが下さった聖書の言葉にしっかりと立って歩んで行きましょう。



2016年4月17日

「主の栄光を仰ぎ見る者」
ヨハネによる福音書4章1~11節


聖書箇所
4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」

4:2 わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。

4:3 その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。

4:4 また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。

4:5 玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。

4:6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。

4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。

4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」

4:9 玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、

4:10 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。

4:11 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」


メッセージの勘所
王座に座っている碧玉や赤めのうのような方、エメラルドのような虹、灯火のように燃える霊、水晶に似たガラスの海・・・。だんだん頭が痛くなってきます。狸にでも化かされているのか?そうではありません。ここにあることは、私たちの誰もがいずれ見ることなのです。「でもたとえそれが真実であったとしても、自分が死んだ後のことを言われたってそれが何になるの?何の役に、何のためになるの?」という声が聞こえてきそうです。そうですね、でもそんな世界が私たちの見ている世界と同時に存在しているのです。皆さん、励まされませんか?
熊本に大地震が起こりました。子供としてはすぐにでも両親のところに飛んでいきたい気持ちがありましたが、そんな中でここにとどまって皆さんにみ言葉を語ることの意味を思わされました。まさにそんな中で与えられた今日のメッセージの箇所が、これも不思議なことですが私たちがなぜ礼拝をしなければならないのかを問いかけていることに、驚きを禁じ得ません。
11節に「主よ、私たちの神よ」という言葉があります。当時のローマ帝国では皇帝に手紙を書くときにはこれと同じ言葉で敬意を表さなければならなかったそうです。
黙示録が書かれた当時、教会はローマ帝国から迫害を受けているさなかにありました。ローマ皇帝が自分を神として礼拝するように民に要求していたからです。礼拝そのものが戦いでありました。教会が礼拝する神こそがまことの神であるという信仰を貫く戦いだったのです。ヨハネは真の神を拝み抜く礼拝のために特別に召された人だったといえるでしょう。
先週の1章から今日はいきなり4章に飛びましたが、2章~3章では7つの教会へ言うべき言葉をイエス様から頂いて記しています。そしてこの4章ではヨハネは天上の礼拝へと導かれていったのです。勿論彼の体はパトモスという島の牢獄につながれていましたから、幻を見させられたと言えます。
神はヨハネに天上の礼拝に参加することを望まれました。ヨハネはこの時の体験から、地上で捧げられる礼拝がこの天上の礼拝に繋がっていることを人々に伝えつづけたと思われます。この今捧げている私たちの礼拝も天上の礼拝と繋がっているのです。
ヨハネに示された天上の礼拝では私たちの知識を超越したような言葉が出てきます。天に玉座が設けられ、そこに座っておられる方は碧玉や赤めのうのようであった。玉座の周りにはエメラルドの虹のようなものが輝いていた。また24人の長老が座っていた。玉座からは稲妻や雷が起こった。玉座の前には7つのともし火が燃え、玉座の中央とその周りには4つの生き物がいた。生き物と長老が玉座におられる方をたたえて賛美を捧げていた。
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ御心によって万物は存在し、また想像されたからです。」と。
なぜヨハネは天の礼拝に招かれたのでしょうか?
伝道者として、いつもヨハネは人々を礼拝に招き、説教をし、主の食卓を仲間と共に囲んでいました。それが彼が召されて仕えていたことでした。
ローマの皇帝が私こそ神であると語っているその世界で、神が生きておられることを確信し、神が与えてくださる言葉を語ったのです。しかしそれは厳しい戦いだったことが想像されます。私が牧師をしているのも、『本当に神は生きておられるのか』という問いに答えるためにここに立てられているわけですが、それに答えるのは簡単ではありません。厳しい課題です。
ヨハネが幻を見せられたと時は、イエスさまが亡くなられて60年くらいたった頃で殉教者が何人も出ていました。教会の中にはその当時の時代背景を考えれば、『いったい私たちはこれからどうなるのか』という不安が満ちていたことでしょう。時として、人の中に芽生えた不安はその人が思いもしなかった方向にその人を変えていくことだってあります。その不安のゆえに、まわりを憎み、敵意を他者に向けることになった人がこの世界にどのくらい存在しているでしょうか。
イエスさまの使徒ペトロでさえ、イエスさまが捕らえられようとしたとき、不安から剣で兵士の耳を切り落としてしまいました。教会という群れであっても、武器を手に周りに暴力をふるう集団に変わることもあるのです。敵意というのは孤独という苗床に不安という養分を与えられたときに最もよく育つのです。敵意は時に自分自身に向けられたり、また時に外へ向けられたりもしますが、いずれも破壊へと結びつくだけです。
ヨハネだって幽閉され今後どうなるかわからない状態でした。そんな中で天上の礼拝へと招かれたのです。この日本でもキリシタン弾圧の中で信仰を守り抜いた歴史があります。先の戦争のときにも教会において、密かに涙を流しながら礼拝を守ったという歴史があります。(また逆に体制になびいていった過ちも犯しましたが。)
教会はこの2000年間このようなことを経験してきました。神はほんとうにおられるのですかと言いたくなる出来事を目のあたりにし、『神がおられるならなぜこのようなことが起こるのか』と思い涙する時に、5章でヨハネは「泣くな見よ」と言われます。その指し示された先にあるものは小羊でした。しかも屠られたような小羊でした。この小羊は十字架にかけられたイエス・キリストを指し示しています。信仰に生きようとするものがなぜ困難な中に生きなければならないのかと思うときにも、すべては小羊の手の中で起こっているのだと知らされるのです。
不安は時として信仰なんかなんの役に立たないという思いや、神さまなんかいないという思いに私たちをさせることがあるかもしれませんが、そんなときに礼拝の中で、私たちは確かな神の御手の中にあること、神が最善をしてくださること、神はいつも私たちの傍らにあることを確認するのです。
故郷の震災被害に心が奪われそうになるときにも、自分の思いではなくまず礼拝を、そうしなければ人間的な思いやパワーではやり抜けないと示されました。神はヨハネを通して7つの教会への手紙を残し、黙示録が記されました。私たちもしっかりとみ言葉を受け取っていく時を持ちつづけていきましょう。また主の日に整えられてそれぞれの持ち場に出て行きたいと思います。
お祈りをいたしましょう。



2016年4月10日

「信仰の力」
ヨハネの黙示録1章1節~8節

『聖書箇所』
1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。

1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。

1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。

1:4 -5ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、

1:6 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」


メッセージの勘所
今日から黙示録を学んでまいります。しかし何を隠そう私も苦手な書物です。やたらと暗号めいた言葉が出てくるし、誰かの頭の出来事をなぞっているみたいでとらえどころがない気がします。でも、この世の前に窮地に立たされ、波高き時代の教会にとってなくてはならない書物だったのです。今という時しか知ることのできない人間にとって、時空を超えている神の目線と展望が、遭遇している困難を乗り越えていくのに絶対に必要だったのです。
黙示録は神さまがヨハネに対して示されたビジョンを語っていますが、難しい!というかよくわからないというのが皆さんの感想ではないかと思います。
黙示録が正典となった後も長く議論になってきました。例えばマルチン・ルターも聖書には含めてはいましたが、この書物を認めませんでした。ジャン・カルバンが新約聖書の注解書を表していますが26巻まではありますが、27巻目の黙示録は外していました。
しかし、今も正典として聖書の一巻として存在するこの書物を私たちは決して無視してはならないのです。
でも頭ではわかっていても、黙示録6章9節などにある復讐を叫ぶ言葉などはむしろ「復讐は神にゆだねなさい」というイエスの言葉と反するのではないのか、教会がそれを許していいのかと思いがどうしても心の中に沸き起こってしまいます。
「黙示」という言葉は、もともとは言葉を用いることなく黙ったままで何かを示すという意味ですが、本来の意味は「啓示」と同意味で、啓き示すという意味なのです。中国語に聖書が翻訳されたときに、この27巻目につけられた名前が黙示だったことから、日本でもその名称を採用することになったのです。ヨハネは黙って神の語りかけを聞き、幻を見せられています。そしてそれをそのまま教会の人々へ語っているわけですが、目に見える現実は耐え難いものであるけれども、「わたしは世に勝っている」と語られたイエスが今もここにおられ、その方を通して自分たちが神のご支配の中に生きていることを、これを聞き続けていた人々は受け取り、励ましと勇気を与えられたのだと思います。
しかし、言葉の一つ一つの意味を取り上げて、ここに書いてあることは何年何月何日に起こる、あるいは起こったということを主張する人や団体がこれまでも多数まで存在したのも事実です。オウム真理教などもその一つです。それは人々を恐れや恐怖で縛ることを意味しました。だから、黙示録は敬遠され、価値のないものと考えられてきたのです。
でも、それは黙示録に問題があるのではなく、問題は読む側にあるのです。
チェルノブイリの原発事故が起こったときには、チェルノブイリが「にがよもぎ」を意味すること、黙示録にその言葉があることから(ヨハネの黙示録8:11)、黙示録に載っていることが実現したと大騒ぎになったこともあります。
しかし聖書の神は将来の出来事を私たちには教えてはくださいません。弟子達が「それはいつ起こるのですか?」と問うた時にも「それは父(神)だけがご存じである」と言ってお教えになりませんでした。

さて1:8には「神ではアルファであり、オメガである」といわれています。アルファはアルファベットの最初の文字で、オメガは終わりの文字です。ですから、初めであり終わりであるという意味なのです。過去を記憶の中にとどめながら今を生きる私たちと違い、神は過去も現在も未来も一緒に見ることのおできになるお方であるというのです。
その神がおられるのだから私たちにできることは、将来やってくるものにおびえつつ、今を不安の中に生きるのではなく、ご自身その不安と苦しみのただなかを一歩いっぽ歩き通されたイエスを見あげて、今をこの時を懸命に生きることです。
聖書の中に花婿を待つ10人の乙女というお話があるのをご存じでしょうか?その10人のうち5人はともし火をともすための油が切れてしまい、他の5人は油を準備していたので突然花婿が来られたときにちゃんと迎えることができたというお話です。
これから何が起こるかわらない将来への怖れはありますが、その中で一体本当の支配者は誰なのかを忘決してれてはいけません。
テレビや評論家は、アメリカ議会、ロシアの大統領、イスラム国などについて詳しく語り、確かにその力は無視できません。しかし、決定力を持っておられるのは神だけです。なぜなら神だけが過去と今と未来を同時に見ることのできる方だからです。
黙示録が読まれた当時、教会はローマ帝国からの迫害という大変な試練の中にありました。集会をすることでさえ難しかったのです。礼拝するのも命がけでした。
そういう人々の集う礼拝においてヨハネの黙示録は全体を通して朗読されたようです。
目に見えて支配しているのはローマの皇帝でしたが、そのローマの皇帝も私たちへの最終的な決定権は持っていない。神はローマの皇帝でさえ自分の駒としてお用いになっているだけなのだ。実生活においても様々な困難があるが、このいのちはいつも神によって支えられている。というメッセージをここから受けてイスラエルの人々は励まされていったのです。
聖書において、証人と言う言葉と殉教者は同じ言葉です。いつ殉教者になってもいいという覚悟をしなければ礼拝には出られなかったのです。その意味では私たちとは緊張感が違ったでしょう。しかし私たちにもこれからこの世界はどうなっていくのかの不安があります。お金と力が支配しているようなこの世界で和解と赦しの神を、正義の神を信じているのか、その神に日々をゆだねて生きていくのかを黙示録は私たちに問うています。
今はイスラム教やキリスト教が戦争と差別の温床だと言われますが、その中でも私は聖書が示す平和と正義のビジョンに立っているだろうか、この世界に神がおられ、この世界を愛しておられることが見えにくくなっているときに、神がこの世界を支配しておられることを信じているだろうか、神が全能であることを信じているだろうかと問われています。
神さまはイエスキリストを十字架にかけられて、イエスさまはまるで死というブラックホールに吸い込まれたように見えたけれど、誰も出てこられなかったその穴をこじ開けてイエスは出てこられたのです。死の力でさえも神は支配されている、そういう方を本当に信頼しているだろうか。あの時代の人が問われたことが私たちに同じように問われているのです。

「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』
是非、この書を皆さんも通読して見てください。
そして、この書物が力をもっており、今も私たちにいのちを与えてくれるものであることを実感してもらいたいと思っています。
お祈りしましょう。




2016年3月27日

「本当に生かすもの11」
ヨハネによる福音書21章1~14節


聖書箇所
21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。

21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。

21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。

21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。


メッセージの要約
イースターもだいぶ市民権を得るようになってきました。
そのイースターの日に私達は礼拝をしてその意味を心にとめたいと思います。
私達はなぜ礼拝をするのでしょう。礼拝は何をするところでしょうか。「礼拝は賛美をして、献金をして聖書を読んで、先生がお話をするところです。」と言えば外見を説明したことにはなるでしょう。では礼拝で何を表現しているでしょうか。礼拝は十字架と復活を思いだすときです。礼拝ごとに古い自分に死に、新しいキリストの命を生きる、そういう自分によみがえるときです。それが礼拝式の本当の意味です。ですから毎回死から生への突破というのが礼拝ごとになされるのです。そういう意味で毎週の礼拝はイースターの礼拝と同じものなのです。
イエスさまが十字架にかかり、よみがえられたのは西暦31年か33年頃のことです。当時の暦で過ぎ越しの祭りの始まる前に十字架にかけられ、三日目の朝によみがえられたのは事実であると私達は信じています。それを礼拝という形で毎回確認していっているのです。
イエスさまは十字架で苦しんで、指一本も動かすことのできない姿で死んでいかれました。そして3年間手塩にかけて育てた弟子たちにも裏切られたのです。十字架にかかる1週間前には「神さま万歳!」と歓迎した群衆にも裏切られたのです。しかしイエスさまは一言も弁明されず十字架刑を受けていかれたのです。
十字架と復活のできごとの意味は全て私達人間のためだったということを聖書は語るわけです。そしてそれはが真実であるということを2000年間教会は存在し続けることによってこの世に証し続けているのです。2000年間はとても大きな重みがあると思います。
人間は確かに愚かで未熟なところがありますが、それでも2000年間騙され続けるというのは、人間をあまりにも過小評価した見方だと思います。このことが弟子たちの謀で、嘘だったとしても、ほんとに作り話だったら2000年間は続くはずがありません。そのことに意味があるから教会は立てられ、今日も私達はここに集って礼拝をするのです。

イエスさまはここで3度目の出現をなさったと書かれています。
弟子たちも最初は怖れ、みんなで一つの家に閉じこもって何度も鍵のチェックをしただろうと思います。次に殺されるのは自分たちではないかという怖れがあったし、自分たちはイエスを最終的に裏切ったということもあって恐かったかもしれません。
しかし、イエスは部屋のまん中に入ってきて「安かれ」―怖れるな、心配するなと言われました。
イエスが何回か弟子達で出会ってくださったことによって、弟子たちは少しずつイエスさまが復活なさったことを受け入れていけるようになったのです。弟子たちはイエスさまに出会ってから一回で立ち直って宣教をしていったのではなく、最初はやっぱり半信半疑だったのです。
この時の出会いは三度目の出会いでした。生前、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の湖畔でイエスさまは多くの弟子を集められました。そしてこの湖で生計を立てていた弟子が少なくとも4人いました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ・アンデレですが皆元漁師だったのです。
イエスさまが亡くなったあと、しばらくの間食べていくためとこれからのことを決めるまでの間、とりあえず元の職業に戻っていたのでしょう。
彼からは漁というものを熟知していましたが、けれどもその日は全く魚が取れませんでした。
何とか立ち直ろうとしているさなかに、漁にまで見放されるなんてと手から力が抜けていくような思いになっていたでしょう。疲れもピークに達していたでしょうから、何かのきっかけであらぬ方向へ爆発したかもしれません。
ティベリアス湖では漁は夜にされていました。失意と疲れをまとって帰ってきたら、岸に誰か立っている。最初は彼らにはイエスだとはわかりませんでした。
「食べ物はあるか」とイエスに聞かれ、「ありません」と答える彼ら…。するとその人は「右側に網を打ってみよ」と言い、はたして彼らがそのとおり網を打ってみると、魚が多くて網を引き揚げることができないほどになった。そこで、ある弟子が「主だ!」と言い、それを聞いたペトロは服をきて湖に飛び込んでしまったというのです。普通は水に飛び込むときには服を脱ぎますが、いかにペトロがあわてていたかがわかります。彼らが岸に戻ってきてみるとそこには既に炭火がおこしてあり魚ものせてあった。またパンもあった。さらにイエスは「今とった魚を何匹か持ってきなさい」と言われます。153匹と魚の数が正確に書かかれていて、いかにこの出来事が弟子たちの記憶に鮮明に残ったかがわかります。
イエスさまは生前なさったと同じように弟子たちと食事の時を持たれました。普通は食事の用意は弟子たちの仕事ですが。イエスさまはいつも弟子たちによきものを与えられます。不安を覚え、思い惑っている弟子たちに御自分にできる奉仕をなさるわけです。
体を温める火と食事を用意されました。この物語は神の恵みの奥深さと豊かさを思い知ることのできる物語です。一方弟子たちは自分たちが裏切り見捨てたイエスさまに対して何もできないのです。何もできないことに情けなくなることが皆さんにもありませんか。私は牧師になってから相談にきた人に何もできない経験を何度もしました。しかし自分には何かができる、価値があって意味があると思いこんでいる傲慢な自分をそのときに思い知らされるのです。
弟子たちはこのとき何もできなかった。魚が捕れたのも、食事ができたのもイエスさまが全部備えてくださったのです。
人生の中で皆さんにも誰かが備えてくださったことによって生きてこられたと思い出す出来事があるでしょう。
イエスさまが最高の奉仕をされたのはどこだったのでしょうか。イエスが語られたこと、またイエスがなさった奇蹟や業を思われる方もあるでしょう。しかしイエスさまがこの地上でなさった最大の業は十字架にかかられることでした。しかし十字架にかかることは何かすることとは違います。人に強いられて、自分ではあらがうこともできずそこにつくということです。自分では手の指一本、足の指一本動かすことができずに死なれたのです。そういう形でイエスさまは私達に対して最上の奉仕をなさったのです。
それは何を意味しているでしょうか。
私達はいつも自分に何ができるかを問題にします、また何を持っているかにこだわります。自分が生きている充実感も、生きている意味も自分が健康で何かできる時にだけ感じるものだと思っているかもしれませんが、聖書はそうじゃないというのです。イエスさまが何もできない形で最高の奉仕をなさったように、自分が何もできないなと思うときこそイエスさまの十字架とつながるときであって、そこで静かに十字架のことを思い、自分自身の思いができるかできないかや、もっているかいないかにだけとらわれていないかを見直す時なのです。
私がメッセージを語れるのも、私が皆さんに奉仕しているのではなくて、私がこれをするチャンスを神から奉仕されているというだけに過ぎないのです。
神の恵みが私をここに立たせ、神の恵みが皆さんをここに連れてきているのです。目には見えませんが。私達のする一つ一つに神の恵みが先行しているのだということをこの物語は教えてくれているように思います。
私達の実りの豊かさは外面的な効果ではなくて、十字架の主にどれだけつながっているかのつながりの深さなのだということをもう一度思いだしたいのです。
私達は自分が元気で何かできているときにはイエスさまの十字架のことを思いださないでしょう。自分は何ができている、自分はこれを持っている、そのような外面的なことばかりを見てしまうのです。しかしイエス様は十字架にかかられる前に腰布までうばわれました。何も持っておられなかった。しかし何も持っておられなくても最上の業をされました。私達もこれからやがて歳を老いていくし、病を得る。手放していかなければならないものが沢山あります。しかしそれにしがみつかないで手放していける、それはイエス様の十字架に目を注いで、私達がそれを手放す力を与えられ時ではないかと思うのです。

4月から新しい年度が始まります。どこに目をとめて生きられますか?
私は最近手が痛くて整形外科に行きました。自分に痛みを得て思いました。牧師になったのも努力の結果ではないし、牧師になるという呼びかけも上から聞いたものだし、それに従っていこうという気になったのも神さまの力だし、今まで牧師をし続けさせていただけているのも神さまの力、それ以外のものはないのだなと思い知りました。

自分の人生が意味を持つという決定点も全く上から来た恵なのだ!弟子達は本当に何もできなかったのです。しかし神は弟子達の罪深さや惨めさなどは問題なさらず、暖かい食事が必要ならそれを用意なさる、弟子達はそれを受けるだけだったのです。その後の人生もおそらく弟子達はこの出来事を繰り返し思いだしたことでしょう。自分たちが無力だったときイエスが自分の思いをはるかに超えて配慮し仕えてくださったことを。
これから生きていくときに問題とすることは自分に何ができるかではなくて、イエスさまと同じように無心になって人のために働いていけるかを目の前に置いて生きていっただろうと思います。

今日は午後から納骨式が行われますが、皆さんは自分が死に臨んだときにどうしたら安らかに目が閉じられるとお考えでしょうか。
アジア開発銀行のお偉いさんがこのようなことを言っておられました。
自分は大学をでるときに何になるかを考えたのだけど、自分の人生の幸福や目的が何かがわかっていればそれにふさわしい職業を選んだのじゃないかと思うが、それがわからなかったので、それならばまずい食事よりは美味しい食事を食べられる方がいい、粗末な家に住むよりもいい家にすむほうがいいと思って大蔵省に入った。それから30年たってアジア開発銀行に出向した。あちこちであなたの国はこういうふうにやれば幸福になれると言って色々なアジア諸国を回っているけれど、自分自身が幸福とは何かがわかっているのかと聞かれるとわかっていない。30年前とあまりかわっていないのだ。死ぬ時がきたら仕事のほうはいかさまだったと思うだろう。なぜなら内側に確信をもってやっていないからだ。しかし一つだけ目を安らかに閉じられることがある。それは一人の子どものために大変苦労をした、それだけは純粋だった。こっちでは安らかに目を閉じられると思うと言われていました。死ぬときに自分が生きている間にした無私の記憶だけが安らかに目を閉じさせるものではないかということでした。

その後、弟子達は自分の罪深さに目をとめてウロウロするのではなく、このままの私を愛して待っておられるイエスさまにのみしがみついていきました。あるものはやはり十字架刑で死んだ者もいました。それも恵のときだとして人生の終わりをやり過ごしていったのではないかと思います。死ぬということは決して消えるということではありません。生ける神のもとに戻ってそこで生きるということであります。だから生と死の境は分ったけれども共に神の命を分け合っているのと同じなのです。そういう意味で共に神の命を分けあっているものとして共に助け合うことができるのです。先に天国に行かれた方もここにおられると信じることができるのです。このイースターにそのことをもう一度刻んでいきましょう。

 

お祈りしましょう。



2016年3月13日

「本当に生かすもの9」
ヨハネによる福音書18章15節~27節


聖書箇所
18:15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、

18:16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。

18:17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。

18:18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

◆大祭司、イエスを尋問する

18:19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。

18:20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。

18:21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」

18:22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。

18:23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」

18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

◆ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う

18:25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。

18:26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」

18:27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。


メッセージの要約
今日の箇所で主人公になっているペテロ、彼は教会の鍵を授けられた人で有名です。ですからローマ教皇はペテロの何代目かに当たるわけです。
ペテロは気の強い人のようですが、漁師でしたから学歴があったわけではありません。彼は肉体労働をし、きつい仕事をしていたと思われます。
そのペテロとイエスさまとの出会いは、ペトロが漁に行って帰ってきたときでした。何の収穫もなくくたくたになっていたペテロに「これからあなたを人間を取る漁師にしよう」と声をかけられたのです。ペテロはその言葉に「はい」と言って従いました。
イエスの12弟子といっても、その一人ひとりに均等に光があてられているわけではありません。ペテロについてはいくつもエピソードが記されていますが、名前だけでただ12人のうちの一人というものもいます。ペテロはイエスさまがいよいよ苦難の道を歩き始めようとされたとき、「そんなことがあってはなりません」と言い、イエスさまから「サタンよ引き下がれ、あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」と厳しい叱責を受けた記事も聖書に載っています。

今日の箇所は過ぎ越しの祭りの前の晩、最後の晩餐、弟子たちへの洗足、最後のメッセージを語られたあとに、イエスを逮捕するために大勢の人がやってきた場面です。
10節には「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。」と書かれています。愛することを伝えられたイエスさまなのに、その弟子が剣で人の耳を切り落とすとはなんということですかと言われそうです。
イエスを守るためにとっさにやったことでしょう。一舜敵も味方もその場に氷ついたようになっでしょう。イエスはそこで「剣をさやに収めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか。」と言われました。そしてイエスは一人逮捕され、弟子たちだけが後に残されたのです。

イエスはまずアンナスのところに連れていかれます。大祭司カイアファの舅でした。
逮捕にきた人達は弟子たちについては逮捕せず放っておいたようです。
そこでペトロともう一人の弟子はイエスさまが引かれていった大祭司の屋敷の庭に入っていきます。
門番の女中は「あなたも、あの人の弟子ではありませんか。」と言います。それに対してペトロは「違う」と言います。このペトロの否認は既にイエスさまによって預言されていました。ヨハネによる福音書13章36節~「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』
ある人は、ペトロはイエスの捕らえられた場面ではたとえ自分も死ぬことになってもと思って剣を抜いて働こうとしたけれど、この場面ではイエスを知らないという、この落差は何なのだろうと思われるかもしれません。肝心なときにこんなことを言って何という醜い裏切り者だし、とんでもない偽善者だと言われてもペトロは一言も反論できなかっただろうと思います。
しかしこの記事を読んでペトロに同情を禁じ得ない私がいることを告白しなければなりません。自分も同じだなと思うのです。ペトロの中に自分が持っているのと同じ弱さ、醜さを感じるわけです。口では神さまのために一生懸命やりたいと願い、そう祈りもしながら肝心なときにはこうしたいと言えないわたしがいます。
よく教会生活でつまずいて失敗した人に、ペトロだって同じじゃないですかと慰めに使うことがありますが、しかし、この記事を自分の失敗や卑怯さの言い訳に使ったり、自分を慰める材料として受け取っていいでしょうか?
この記事は4つの福音書の全部にでてきます。
この受難節のときに2000年間、必ずと言っていいほど読まれてきた箇所です。一人の失敗の出来事が繰り返し読まれ続けてきたのです。私がペトロだったらもういい加減勘弁してくれよと言いたくなるとおもいます。できれば抹消したいところだったでしょう。しかしなぜ教会はこのことを繰り返し語り続けるのでしょう。それはもし私たちが忘れ去ってしまうとしたら私たちはまた同じことを繰り返してしまうからです。

バイツゼッカーというドイツの大統領がこのようなことを言いました。「過去を忘却するものは未来を失う」と。私たちの人生にも後悔や消してしまいたいものが一杯あるのではないでしょうか。過去を思いだすのは辛いことがあるでしょう。でも私たちはそういう失敗があってこその私たちです。そういう失敗があったからこそ今まで生き抜いてこられたこともあるのではないでしょうか。むしろあの失敗がなかったら今の自分はないというのが人間ではないかと思います。

イエスのために命も捧げてもいいといいながら、また戦闘に立って戦おうとしたペトロがイエスのこと三度も知らないという、私たちもあるときにはかっこよくやったのに、そのあと後退を繰り返すこともありますよね。イエスさまは私たちの中にそのような信仰の弱さがあるのを承知で歩んでいかれたのです。ペトロの物語を読み返すとあまり自分の弱さを気にする必要はないのではないかと思うのです。私たちの弱さは神さまにははじめから織り込み済みなのではないかとそうおもえるのです。

初志貫徹とか、信仰を貫かなくてはいけないとか私たちは思うかもしれませんが、実際の自分の生活を見るとそれで本当に信仰者?と問われるようなことを人生の中で繰り返しているのではないでしょうか。神さまはそのような私たちの初志貫徹や、信仰を貫くことなどはおそらく当てにされてないのではないかと思うのです。
大事なことは私たちの焦点がいつもどこに向いているかです。自分の弱さや貧しさに向いてしまい自分は駄目なのだと思うか、所詮自分は自我や欲望に振り回される者であることを認め、主がそういう私たちをそのまま引き受けてくださっているという主の救いに目を向けるかなのです。イエスさまはそういう私たちと共に歩んでくださるのです。
ヨハネによる福音書で私が顕著だと思うことは、イエスさまが最初からご自分の死を目の前に置いて歩んでおられたということです。3章の14節には「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と言われましたが、これは自分は十字架で死ぬことを預言しているような言葉です。また12章32節には「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」とあるように「上げられる」とは十字架の死を意味しました。

イエス様がご自分の死を目の前に置かれたのには理由があります。
5章18節には、「このために、ユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとねらうようになった。」とありますが、これはイエスさまがベトサイダの池で病人を癒されたあとのユダヤ人の様子です。また11章53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」とありますが、これはイエスがラザロを生き返らせたあとのユダヤ人の在り様を表しています。人々の殺意を感じながら歩まれたのです。イエスさまは人々の醜さ、弱さ、恐ろしさ、どす黒さなどの中でも粛々とご自身の歩みを進められていかれたのです。それを振り払うでもなく、正そうとしたり、怒りを表そうとしたりしたのでもなく、人の醜さと、暗闇の真っただ中を歩まれたのです。

ですからこのペトロの裏切り、その豹変ぶりもイエスの歩みをとどめるものではなかったのでした。そのペトロについてもイエスはのちにペトロがどういう者になるかを預言されています。そして立ち直ったら人々を励ましてあげなさいと言われています。
過去の過ちもイエスさまに関わっていただくときに、もう一度自分自身の歩みを正し、人との関係を見直すことができ、色々な意味で私たちの人生をよりよくしていくための宝物になっていくのです。

惨めさにだけ目をとめないでください。イエスさまはすべてご存じです。その上で私たちの友となって御自分の命を捧げてくださったのです。
わたしたちはイエスに向けて目を上げていかなくてはなりません。失敗を誰かが責めてきても、それも引き受けて、イエスは決してわたしを見放なさないと自信を持って歩んでいっていいのです。
ペトロものちにそれらのことがわかるのです。
私たちにもそのように道をしめしてくれる兄弟姉妹がここにいます。その友との関わりの中から自分自身の歩みをイエスさまの方向へ絶えず向け続けていきましょう。

 

お祈りします。



2016年2月28日

「本当に生かすもの7」
ヨハネによる福音書15章1節~17節


聖書箇所
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


メッセージの要約
昨日出崎姉妹が87歳の生涯を終えて召天されました。
常日頃支えてくれた長女の到着を待って静かに眠るように召天されたそうです。
私が出崎さんと初めてお会いしたのは13年ほど前です。
その時出崎姉妹は開口一番「私は11の病気を持っています。ですからいつ死んでもおかしくない身なのです。」と言われました。初対面で自分の死の話をされた方に初めて出会って、それで今でもよく覚えているのです。
出崎姉妹はその時から召天された昨日の2016年2月27日を目指して歩んでおられたと思います。
11の病気のどれもが、もしその一つだけを患ったとしても、生きていくのがつらくなるような重い病気をお持ちでしたが、あれから13年、主が生かしてくださったとしか言いようがありません。「お医者さまにも『どうして生きていられるのか分かりません』と驚かれるんです」と笑いながら話しておられた姿が目に焼き付いています。
また「長い間医学にお世話になりましたから、死んだら検体をして、医学に恩返しをさせてもらいます」と言われていましたので、今日はお別れの時のみを持つことになります。
私は出崎さんにお会いするときに、彼女から愚痴や、人の批判、人生の呪いとか聞いたことがありませんでした。
「私は毎日ただただ感謝して生きています」とおっしっていました。
「先生、一緒に入院している人達がよく言うんです。『家族がきてくれない』とか、『看護師さんがああしてくれないとか』愚痴ばっかりなのです。「愚痴ばっかり言っても人生少しも楽しくなりませんよね。それも人生と思って生きていかなければ楽しくないと思うのですけど」と言われていました。今思うと、僕に言われていたのではないかと思います。
そして続けてこうもおっしゃっていました「物事はなるようにしかなりません」と。それは単なるあきらめとか悲観論ではなく、やってくる出来事を全身で受け止めようとする出崎さんの生き方そのものをあらわしています。
出崎さんの人生は病気以外にも戦いの連続でした。しかしそんな中をひょうひょうと生きてこられました。それはヨハネ14章1節にある「心を騒がせるな。神を信じなさい。」というみ言葉に尽きる信仰だったのではないかと思います。「そして、私をも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したなら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と書かれていますが、出崎さんはこの言葉の通り、イエスさまが用意なさった御国で今、すべての重荷から解き放たれて自由を得られたのです。自身の病だけでなく、離婚され女手一つでお子さん方を育てなければならなかった苦労。息子さんや娘さんたちに降りかかった病、どれ一つとっても押しつぶされておかしくないものばかりです。そんな中でも出崎さんにあのような人生を歩ましめたものは何だったのでしょうか。それは彼女がイエスさまにつながり、イエスさまも彼女につながっていてくださった、そして主に信頼して生きたことに尽きるのではないかと思います。

さて今日の聖書箇所で、ぜひ覚えて帰っていただきたいみ言葉は15章16節です。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
私たちはイエスさまに選ばれているものです。その理由はなんでしょう。イエスさまにしかわかりませんね。でも私に何か特別なものがあったからでないことはたしかです。
でも私たちは選ばれたのです。
私が牧師になったのは1988年ですが、その年に婚約をしました。その婚約式に私の母教会の牧師も来られるので、合わせて特別伝道集会も組まれていたのです。私は何もせずただ座っていればよいはずだったのですが、その牧師が緊急入院されて予定がキャンセルになったのです。私はいきなり2回の特別伝道集会のメッセージをすることになりました。
急過ぎて頭が真っ白になりました。なんとかこなしたものの、その時の婚約式で急きょ司式を引き受けてくださった近隣教会の牧師がくださったみ言葉がこの言葉でした。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」突然のことで、それに対応するのに必死だった私に、「大丈夫。どんなことがあっても大丈夫。イエスさまが一緒」そう言われた気がしました。
人は一生のうちに色々な出来事に遭遇し、中には厳しい試練に直面することも度々です。
でもその試練の大きさや重さが問題ではなく、私たちがどんな状況の中にあっても出口が与えられた者として生かされているということを弁えておくことが大切です。なぜなら神が私たちを選んでくださっているからです。神は私たちに愛を注いでくださり、私たちの周りに色んな人を遣わしてくださって私たちが決して倒れないように守られているのです。だからつくづくキリスト者の人生っていいものだなと思うのです。
しかし、主を信じているからといって誰もが出崎さんのように大往生ができるわけではありません。それは出崎さんが日々そのように歩まれたからできたのです。
日々喜んで感謝をして、どんな中にも主の平安を頂いていかれたからです。
なかなかそういうことはできないかもしれません。今の自分には到底できないと思われるかもしれません。
でも、今ここから、私たちはそのような生き方を選ぶことはできるのです。
イエスさまはそのために私たちに一切の配慮をしてくださっています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)の「友」とは私たちのことです。イエスさまは自らのこの言葉通り私たちのために命を捧げられました。
私たちが人生において愛を全うできるように愛にあふれた喜びの人生を全うできるようにです。
その上さらにイエスさまは私たちのために場所まで用意して待っておられるのです。こんな行き届いた配慮があるでしょうか。
だから私たちはイエスさまにつながっている。そのつながりをいつも礼拝をもって、祈りをもって、日々の生活の中で確認をしていくことが大切です。そのことをもう一度しっかりと心にとめて、この一週間を歩んでいきましょう。

 

お祈りをします。



2016年2月21日

「本当に生かすもの6」
ヨハネによる福音書13章1節~17節


聖書箇所
13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、

13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。

13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。

13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。

13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。

13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。


メッセージの要約
今受難節に入っています。今日は受難節第2主日です。
始まりは10日の水曜日、灰の水曜日といいます。それはイエス様が十字架への道を始められる日、信仰を持つ者がそのことを覚えつつ、その時代に焦点を合わせて思いをはせ一日一日を歩んでいこうという日として勧められています。
イエス様の身の上には段々と死の影が色濃く表れてきます。
そしてイエスの愛があるところには悪魔の業があることも知らされます。

13章1節
「さて、過ぎ越し祭の前のことである。イエスはこの世から父のもとへ移る自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
いよいよその出来事が起ころうとしていました。そのできごとによって人類は大きな転換点を迎えようとしていました。

そのこととはイエスの死が来ることを意味していましたが、イエスの死は決して安らかなものではありませんでした。
そこには裏切りがあり、叫びがあり、苦しみと痛みを通ることによってそれは成されていくのです。
先々週、ラザロがよみがえらされた話ができてきましたが、永遠の命とはどういうものか?よみがえりの命とは?を説明するのは難しいものです。そのとき私は命というのは死を経てこそ命なのだと申しました。人が生きるということは、その人がどれだけ自分に死んだかではかられるのだと。
ヨハネによる福音書では、イエス様は「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」と2回も「愛して」という言葉がでてきます。その出来事は十字架にかかって自分の命を献げられることに集約されるのです。十字架にかかって死ぬということは人々から罪人として断罪され、神に呪われたものと見なされるということです。人々にさげすまれ、忌み嫌われるものとして十字架にかかっていかれるのです。聖書はそこにこそ神の愛があらわれている。それがイエスさまの愛し方、愛し抜かれたできごとなのだと言うのです。
イエスはそのようなところを通って復活へといかれるのです。

「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」
尊い愛の業の傍らに悪魔の働きもあるわけです。
イエス様の十字架の業は素晴らしい信仰をもった人たちの間で起こったのではなく、悪魔が活発に活動しているようなこの世の暗闇や悲惨のただなかで起こったできごとなのです。
聖書を初めて読んだとき、イエスはどうして悪魔に働きを許されるのだろうと思ったことを覚えています。神様は悪魔をやっつけるという直接的は行動ではなくて、人々がイエス様の信仰を通して悪魔の反撃を退けていくことを望まれたのです。
それほどに神は私たちを信頼されているということです。私たちが与えられている自由をそのように用いると信じておられるのです。

イエス様は食事の席から立ちあがって足を洗われました。普通は食事の前に足を洗うものですが、食事は既に始まっていたのに席をたって、手ぬぐいを腰に巻き、弟子たちの足を洗い始められました。
当時足を洗うということは異邦人の奴隷がすることでした。ユダヤ人で生活に行き詰ったがゆえに奴隷になった人であつても決してしない行為でした。ゆえにユダヤ人同士では起こりえない出来事だったのです。それをイエスさまがなさったのです。
シモン・ペテロの番になった時、彼はこう言いました。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。」
イエスはこう答えられました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、わかるようになる。」「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」そこでペトロは言いました。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」最初は謙遜だったペトロが、ある時を境に高慢な姿をさらけだすのです。人間とは本当に弱いものだと思います。
主はそれに対して、「既に体を洗った者は全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」この意味は、弟子たちは既にイエスさまに愛しぬかれている。それはすなわち彼らは清められたことなのだからもう足だけ洗えば十分なのだとおっしゃったのです。
「あなたがたは清いのだが、皆が清いのではない。」それは、イエスは全ての人を愛されたけれど、すべての人がイエスの愛を受け入れるわけはないとの意味。イエスさまはあるときこう言われました。「人の犯す全ての罪は赦される。しかし聖霊を汚すことは決して赦されない。」どんな罪をも赦されるが、どんな罪をも赦されることを信じないものだけは決して赦されることはないということです。それによってその人は自ら罪の深みに嵌って行ってしまうのです。どんなものも赦されている。そのことを信じることをイエスさまは求めておられます。

色んな方と話していると自分が赦されていることを信じることは簡単なことではないことを思います。クリスチャンのなかにも「あなたは神さまに愛されていますよ」と聞かされたとき、「先生、私は神さまの愛など受けていません」と否定される方を沢山見てきました。自分は神さまに愛される資格なんかないとおっしゃるのです。でもそれは今日だけのことではありません。
「イエスさまは世にいる弟子たちを愛して、このうえなく愛しぬかれた。」弟子という言葉から受ける印象はイエスを主として歩むものと受け取られがちですが、弟子たちでさえも終始一貫イエスを信じ抜いて生涯を終えたのではなかったことがすぐわかります。
ユダがそうです。
ペテロもこの後イエスさまのことを3度も知らないと言い、イエスが十字架につけられたあとは皆逃げ去ってしまうのです。しかしイエスの愛は弟子たちの情けない裏切り、不信仰にかかわらず、すべてのものに及んでいくのです。
イエスさまがユダの足を現れるときどんな思いだったろうかと思います。私はイエスさまはユダの足こそ最も丁寧に洗われたのではないかなと思います。愚かな子ほどかわいいということが本当なら、いや、神さまにとっては愚かな子などいないのです。私たちはみんな神さまに命を賜った神さまに愛されている子どもなのです。
神さまは逆らった者を捨てるのではなく、追い求められる方です。100匹の羊の話もそうです。99匹を置いて一匹を探しまわるイエス様。その一人が探し出されたときに、天では天使たちの宴会が繰り広げられると書かれています。そのように私たちは愛しぬかれているのです。
神さまは私たちにその愛を受け入れるかどうか選択する自由まで与えられています。
だから時々私にはそんなものいりませんと神さまにいけずをしたりしますし、神に愛されたくもないとうそぶくことさえいたします。そこまで言うにはその人なりに苦しまれておられるのだろうと思います。私にはその人を説得する力はありません。神さまがその人に関わってくださるように祈っていくしかないのです。神の時が必要なのです。
また、聖書を見ていると人は一瞬にして変わるところを見せられます。パウロ、ペテロ、弟子たちしかりです。後で聖書を描いた人達は紙面の関係もあってそのように描きますが、現実の世界ではそれは長い時間をかけてゆっくりと進んでいくものです。復活の命に触れ、イエスの命に触れる、そして信仰を持つようになったとしても一気に人が変わったようになることはありえないのです。何度も何度もイエスさまを裏切り、背き、もう一度引き戻されて川を少しずつ渡っていくように段々と神のもとへ近づいていくものです。

十字架にかかりよみがえっていかれるできごとは私たちの為でありました。イエスさまは過ぎ越し、すなわち死を通りこして神のもとへ過ぎ越していかれた。それは一人ではなく、私たち全員の手を引いていかれたのです。人間が超えることのできない死という壁を通りこしていかれたのです。
その前味を私たちは今味わっているのです。私たちは無目的にこの地上にいるわけではないのです。愛し抜かれたその力をイエスさまは今も私たちに送っておられるのです。
自分の力でなく、イエスさまのくださる力で互いに愛し合いなさい、足を洗い合いなさいと勧めておられるのです。
私たちは自分の足をイエスさまに洗って頂いたのです。今度は私たちが人の足を洗わなければなりません。人は一人では生きられないし、人生の喜びも感じることはできないのです。私の力を誰かのために使うときほんとうの幸せとは何かを知っていくからです。
イエスさまはその道を全うしていかれました。
イエスさまは今日私の、そして皆さんお一人お一人の足を洗われたのです。そのことを心にとめて、人々に仕えることを全うしていきましょう。

 

お祈りします。