あなたへのメッセージ


2017年2月26日

宣教『天国の激変 その2』

マタイによる福音書12章22~32節


聖書箇所


メッセージの要約

これから結婚する二人のカウンセリングをしました。お二人はクリスチャンではないですけども、私の語る言葉が染み入っていくものが感じられて、嬉しく思いました。聖書はクリスチャンだから、よく分かっているかというとそうではないのです。ノンクリスチャンの方が入っていくこともあるのです。時にはクリスチャンの方が理解出来なく、そうではない方が理解できることもあるのです。今日の聖書箇所はまさにそうです。

イエスさまの一つの行為が、罪人だとみなされていた人々には受け入れられ、宗教的なリーダーとみなされていた人達から反対を受けました。
「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか。』と言った。」
イスラエルの人達が待ち望んでいたメシアが来ているのではないかと、群衆は期待し喜んだということなのです。しかし、そこにいたファリサイ派の人達は驚かなかった。「自分たちこそ、神の言葉を持ち、神の心を知っている。」そのような自意識を持って冷静にイエスさまのなさったことを分析したのです。そんな彼らの出した結論は「悪霊の力で追い出している。」でした。自分は信仰が分かって、知っているという人が、実は本質が全く見えないということが起こるのです。ファリサイ派の人達は、「あなたのなさっている事、自分たちの知恵からすれば、悪魔、サタンの仕業としか思えない。」そのようにイエスさまの業を判断したのです。
今日、一つ覚えてもらいたいことは、私たちもファリサイ派の人達の罪からまぬがれていないという事です。この箇所は、神、聖霊、キリストと関係について視察することを求めているのではなくて、私たちに対する一つの警告です。イエスさまは、最後にこのようにおしゃっています。
「だから、言っておく、人の犯す罪や冒瀆は、どんなものでも許される。」そんなこと言っていいんですかと、こちらが引いてしまうような言葉です。しかし、イエスさまは単にファリサイ派の人たちの罪を断罪しておられるのではないのです。イエスさまは覚悟を持って彼らの罪を背負って、彼らをも得たいと願っておられるのです。単に間違いを指摘するだけでなく、そういうファリサイ派の人たちをも、得ようとしておられるのです。
「『霊』に対する冒瀆は許されない。」一体何のことを言っているのだろうと思われるでしょう。それは、ここに明確な神の働きがあるのに、それを悪霊の業とすることによって、神の働きを認めないということです。それは「この世でも後の世でも許されることがない。」とまでイエスは言われました。神をよく知っている自分たち自身が、神をのけ者にしてしまう。神の恵みの中から出て行ってしまうことになるということです。
「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。」
ファリサイ派の人たちは、イエスさまの業をみて、「サタンの親分の力を借りている。」と言っているのです。私たちも階級社会に生きています。どんな社会にも階級があるので、サタンにも階級があると自然に思いがちです。当然悪霊や悪魔にもそれがあると・・・。でも、悪霊や悪魔は自分こそが支配者である、そういう存在なのですから、他の支配を受けるはずがありません。イエスさまは、そんなことをすれば、悪霊の中で内紛が起こるだろと言っているのです。
「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。」
イエスさまは癒の業を、自分だけの専売特許だと思ってないのです。あなた方の中にも癒しを行っているものがいるではないか。だからこう言われたのです。「彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
「また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその押し入って、家計道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
繰り返しますが、ファリサイ派の人たちは、「あなたのしていることは神の働きではなく、悪霊の働きだ。あなたが悪霊の親分で、その人に取りついて悪霊は自分より地位が上のものの言葉だったから出ていったのだ」と、そのように言ったのです。
私たちはこの世のシステムを信仰の世界にも持ち込んでしまい誤解が生じてしまいます。常識や経験から御言葉を量ろうとするとき、えてしてそういう過ちが起こるのです。もちろん私たちは自分の経験や知恵を持ってしか聖書は読めません。だからといってそれにのみ頼ってしまうと、このような間違いを犯してしまうのです。
この聖書の箇所を読みますと、マザーテレサの本を思い出します。マザーテレサがこの世界に知るようになったのは、イギリスのEBCのキャスターであったマルコム・ボルドリッジという方ドキュメンタリーを作られたことによります。マルコム氏はイギリスの中でも知られた知識人です。マザーテレサに対しても最初から好意的だったわけではありません。どちらかというと懐疑的だったというのが正直なところです。どこかに偽善が現れてくるのではないかと思いながら、マザーテレサのところに行ってドキュメントを取りました。しかし、活動に触れれば触れるほど、自分ではとても出来ないようなこと、神の力が働いているとしか思えない出来事を目に間に当たりして行くのです。マザーテレサが最初に作った死を待つ人々家は、ヒンドゥ教の古くなった神殿を買い取って作られました。窓は上のほうに数箇所あけられているだけで、中は本当に薄暗かつたのです。そこで今まさに、死んで行こうとしている人たちを幾人もマザーテレサとシスター達は世話をしていました。マルコムさんたちは神殿の中に入って撮影を始めるのです。けれども、カメラを回している撮影スタッフたちは、「このような所では良い映像が取れない」と懐疑的だったのです。しかし、マルコム氏はそれでもいいから撮れと言ってきかず、撮影スタッフたちは仕方なく撮りました。しかし、帰って現像してみると、薄暗い神殿の中のあの光景が、外で撮ったどのシーンより、明るく撮れていたのです。撮影スタッフとマルコムさんは驚きました。「どうしてそうなったのか。」マルコムさんがたどり付いた結論は、「彼女たちがイエスと同じことをしていたからだ。」でした。そして、彼は自分が育って来た中でいたる所に宗教画があったけれども、そこに描かれていた人々の背後に光輪が描かれていたことに思い至ったのです。しかし、この映像をイギリスの牧師たちに観せたときに、驚くべきことが起こったのです。「暗い室内でライトアップもしてないのにこんな綺麗な画像が取れるはずがない。これは自然現象のいたずらだ。」彼らは自然現象の影響だとか、器械の何らかの誤作動だなどと言うばかりで、マルコム・マガリッジさんが心打たれたことに目を留め、信じるということはありませんでした。
先ほども言いましたようにこの箇所は、私たちに対する警告なのです。
結婚カウンセリングのことを冒頭でお話ししましたが、私が必ず結婚をするお二人に話すのは、愛するということは、見詰め合うことではなくて、同じ方向を見るということだということです。マルコムさんが見ている所を、イギリスの牧師たちは決して見ることはしなかった。マルコムさんを始め、初めは疑ってかかっていた人たちが、実際にマザーのしていることに触れて、これは神の御業だと喜んでいるのに、神を信じているという者たちがそれに水を浴びかかせるようなことをする。そういう姿でもあるのです。それでもこんな私たちのどうしようもない罪を、イエスさまは許してくださる。二千年の時を経た今でも、神の働きを見ても「そうではない。神ではなく悪霊の仕業だ」と言い張ることが起こる。決して神の働きを見ようとしない。イエスさまは、そのことを悲しまれるのです。
見えないものへの感性がいろんなところで言われています。それでもなお、私たちは見える所にこだわるのです。私たちは神の霊の働きの中に、今も置かれています。どうぞ、自分の生活おいて省みてください。牧師が指し示している方向を、まずは目を向けてみてください。それから自分が目を向けていた方向と比べて、違いに気づいていただきたいのです。牧師が神からこういう事を聞いている。自分は気づかない視点だった。そういうことを思いながら、牧師の説教を聞いてください。そこから、自分に対して示されていることを、受けていただきたいと思います。私も、誤り多い者です。しかし、そのようなものを用いて神が語っておられるのです。そこで語られるメッセージを、りんごをえり分けるように、外側から眺めているだけでなく、目の見えない神の働きを一緒に見て行こうと、神の指示される方向を一緒に見つめてください。
私がクリスチャンになったころ、しばらくして信仰に対して疲れを感じたことがありました。自分と関わってくる人がうっとうしくなって行ったのです。いろんな方が私に礼拝が終わった後、牧師のメッセージの解説をしてくれるのです。親切心だということはわかりますが、それを聞いていて、自分が受けた事と違っていて、だんだんと疲れてきました。それで三週間続けて礼拝を休み、牧師から連絡がありました。理由を話すと、教会で私にはなしてくれたことを覚えているかと聞かれました。「君は自分には許せないものがある。」と言っていたね。でも聖書には「裁きは神のすることだ」と書いてある。今回のこともその原則に従ったら良いのではないか」牧師が私に諭してくださいました。「原点を忘れていた。神さまに委ねることだ。」と気づかされました。それからまた新たな思いで礼拝に集うことが出来ました。
教会生活、信仰生活にはいろんなことが起こってきます。私たちは、その中でイエスさまに従い、語られる聖書の一つ一つを、自分へ向けたメッセージ、この私のための特別な命の言葉として受けて行く。それが、私たちにとって、何よりも大事なことなのです。
「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも許されることがない。」
私はイエスさまはおそらくこのような言葉を語りたくなかったと思います。こんな厳しい言葉をイエスさまが語らなければならなくなったのは、パリサイ派の人たちの頑なさのゆえです。自分だけが神の業のなんたるかを知っているなどというのは恐ろしい思い上がりです。しかし、教会の中でも起こうることです。私たちは、しっかりと神の業を見分けて、神の指示される方向へ、目だけでなく自分の心も体もに向けて歩んで行きましょう。

 

お祈りいたします。



2017年2月5日

宣教『さあ、起きて!と呼ぶ声』

マタイによる福音書9章18節~26節


聖書箇所

9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。


メッセージの要約

この箇所は他の福音書にものっています。マルコとルカです。
イエスのそばにやってきた指導者の名前はヤイロであるとマルコは記しています。
マタイはこの箇所をマルコの半分ほどに縮めていますが、マタイとマルコの大きな違いは、
マルコでは指導者がイエスのそばに来たとき娘はまだ生きており、一方マタイでは娘は既に死んでいたことです。
しかし、どちらが歴史的な事実かと問うことはあまり意味がありません。それぞれの物語は、作者の意図を持って編集されていて、それぞれに意味があるのです。
マタイはこの物語で、自分と周りに起こりうる死にどのように備えていけばいいのか、危機に瀕するときにどこに行けばいいのかを示しているように思います。
普通は娘が生きているときに治してもらおうとしてイエスの元に来るのが自然でしょう。
マタイの1章~8章までを読んでみてもイエスが死んだ者を生き返らせたという記事は出てきません。もしそういう噂でも聞いていたならば死んだのちもイエスの元に行ったことも考えられますが。
父親なら笛を吹く者たちや騒いでいる群衆と共に嘆きに沈んでいるのが普通のように思えます。
しかし、彼はイエスのところに飛んでいきました。
そうせずにはおられなかったのです。

誰にも信仰の危機が訪れることがあります。信仰を持つと逆に悩みが深くなったという経験をされた方も多いでしょう。
この指導者は信仰的指導者でしたが、イエスの元に飛んでいったことから、彼が12年の間どんなに娘を慈しんで育ててきたか、彼の娘への深い愛情が伺えます。
今、娘の死と共に彼の信仰も危機にさらされています。なぜ私の娘が、この前まで元気だった娘が死ななければならないのか。なぜですか?あなたはなぜこんなことをなさるのですか?
先ほど礼拝の中で一緒に口ずさみました、詩編119編に、「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください」とありましたが、まさに同じ心境だったのではないかと思います。信仰も滅びる寸前までいっています。
しかし、同じ119編31節では「主よ、あなたの定めにすがりつきます。わたしを恥に落とさないでください」と言っているように、彼もまた「おいでやって娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返るでしょう!」と訴えています。
彼が生き返らせてほしいと願ったのは、娘だけでなく、自分の信仰もでした。

イエスはこの人について行かれました。
するともう一つの思いがけない出来事が起こります。
20節「すると、そこへ12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた」のです。
マルコの記事を見ると、この女は治療のために全財産を使い果たし、12年もの間苦しんできました。他人からは汚れていると見なされ、人に触れることも許されていませんでした。
片や両親に愛され12年間育ってきた子がいて、片や、同じ12年の時をずっと苦しんできた人がいる。これも私達の人生です。
その二つの人生がイエスのところで出会いました。
女はイエスの服の房に触れました。房は服の4か所に付いていて、それを見るたびに神が共におられることのしるしとして、また自分たちの神を忘れることのないように戒めとして付けられていました。
彼女はそれにさえ触れればなんとかなるだろうと一縷の望みを託して、後ろからそっと触れました(マルコの記事)
そして触れた瞬間に癒されました。
イエスは振り向いて言われました。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。
あなたの信仰があなたの病気を直したとは書かれていません。
なぜ『救った』とイエスは言われたのでしょうか。救い、それは私達がイエスの命に、永遠の命に触れることです。イエスの死んでも死なない命に触れた。与った。その時彼女は治ったと書かれています。

それから少女のところに行かれます。
そして、嘆く人々に「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。
その時の人々の反応―人々はイエスをあざ笑った―はある意味当然のことです。
イエスは群衆を外に出して少女の手をとりました。すると少女は起きあがりました。
少女もイエスの命に触れたのです。
先ほど主の晩餐式でパンとぶどう酒をうけましたが、私たちは毎週そこでイエスの命を私の内に受けているのです。これはわたしの体である。これはわたしの契約の血である。そう言われているのですから。ですから、私たちも毎月、神の命、永遠の命の恵みを受けているのです。なのにどうでしよう。「私なんてどうせ駄目」、「私なんて生きていても何の意味もない」と思っていないでしょうか。

危機に瀕したとき、どこに行きますか?イエス以外の他のところに行っていませんか?
イエスは私たちの手をしっかりと握ってくださっています。イエスさまだけが私たちをどんな絶望の中でも立ち上がる力をお与えくださる方です。
イエスは、今この時を生きる私たちにも、イエスさまの命に、永遠の命に触れてほしいと願っておられます。にわかには信じがたいと思われるかもしれません。でも少しずつでいいのです。
み言葉に触れ、そのみ言葉を信じ生きてみることによって、永遠の命があなたの中にも生きて働いていることがだれにでもわからせていただけるのです。
イエスさまは私たちのすべてをご存じで、私たちが自分が本当には何を望んでいるかさえ知らなくても、導いてくださっています。
私たちは人生の課題に一喜一憂しますが、どんな時もイエスに視線を向けなおして、イエスさまと共に立ち上がる人生を生きていきたいと思います。

 

お祈りしましょう。



2017年1月29日

宣教『息苦しさから脱したいなら』
マタイによる福音書7章7節~12節


聖書箇所

7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知って いる。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」


メッセージの要約

トランプ氏はアメリカ大統領就任演説で詩編133:1「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」を引用しました。
しかし、ここでいう兄弟とはアメリカ国民という名札を持っている人に限られるということはその全文を見れば明らかです。不法移民、同性愛の人等、トランプ氏の価値観に則わない人々はそこには入っていません。トランプ氏を大統領に押し上げたのは、自分は誰かのせいで非常な不利益を被っているという怨念を強く抱いていた人々だといわれていますが、今、世界各地でトランプ氏のやり方を見倣って自分の中の怨念を思うがままにぶつけてよいのだという気運が高まっています。日本でもそれはヘイトスピーチという形をとって現れています。

今日の箇所のマタイ7章12節「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言です。」は黄金律と呼ばれてきました。
価値観の押しつけだといわれることもしばしばありましたが、米国の行動原理の背後にはこのみ言葉があったことは間違いありません。しかし、人のことを考える余裕はなくなって、傷ついた自分というイメージが極端に肥大しています。その結果、他者を遮断し、他者との間に壁を作り始めているのです。そして自分と自分と同じ価値観を共有するもの以外はすべて《敵》となっていくのです。
詩編133:1にある《兄弟》の意味ををそのような形で聞きとっていくのは怖ろしいいことです。
今、私達は、この世界の現実がそれほどに深刻さを増しているということををわきまえる必要があるのです。
トランプ氏もクリスチャン。カルバン派の流れをくむ教会の信徒です。
私たち日本バプテスト連盟も、アメリカの南部バプテストという教派からの多大な祈りと献金によってここまできることができたのです。だから今度は私たちが米国のために真剣に祈らなければならないのです。

さて今日の箇所はマタイ5章~7章でなされた山上の垂訓のしめくくりの箇所です。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」
余計な心配かもしれませんが、このように断言したら、誤解されるのではないかと心配になります。山上の説教の中には、たとえば、5:22には「私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」5:39「悪人に手向かってはならない。だれからあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」5:44「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」6:25「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」等々の言葉が書かれています。
実践する前から自分にはとても無理だと思われる言葉の数々です。
しかし、これらのことはイエスさまにとっては簡単なことだったのでしょうか。そうは思われません。誰が望んで家畜小屋などで生まれたいと思うでしょうか。まして十字架で死ぬなどということを…。イエスさまの生き抜かれた日々も、自分の願ったことがなんでも叶っていくというようなものではなかったことは明らかです。

しかし、人生は厳しいからこそ、求めること、探すこと、門を叩くことを諦めてはならないとイエスは言われます。そう言われるイエスの人生の最後に彼が到達されたところは十字架でした。この苦い杯を取り除けてほしいと願われましたが、しかし、その盃が取り去られることはありませんでした。イエスの願うところではなかったけれど、イエスさまはそれを引き受けていかれました。
なぜでしようか。父なる神は私たちの求めるところを無にはしないという確信があったからこそ、イエスさまは「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」語られ、それを十字架上に至るまで貫かれたのです。
私たちの求めや願いは、私たちの願うようには果たされないかもしれません。しかし時間はかかっても、またその形は違っても必ず果たされる、しかも私たちの思いをはるかに超えてよい形で果たされるとイエスはおっしゃっているのです。だからこそイエスは私たちにチャレンジし続けられるのです。
人間関係の中で、あってほしくないことですが教会の中でも傷つけたり、傷つけられたりということがあるでしょう。信仰生活を続けながらも「もうあきらめよう」と思ったことも多々あるでしょう。
私たちの肉の心、罪の心は「あきらめなさい。やっても無駄だ」という方向に私達を向かせようとします。けれどもイエスは「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言い続けられるので。それは無駄に終わることはないと言われるのです。

神さまのなさりようは次のようなものではないかと思います。
交通手段が馬だったころのこと。子どもが父親に馬をねだります。父親は大人になったら買ってやろうと言います。時は流れ、時代は馬ではなく、車の時代になりました。子どもが成人したときに、おそらく父親は馬ではなく、車を買ってやるだろうと思います。その時、馬が車になったのだから約束は果たされなかったということになるのでしょうか。
神さまは私たちに何が必要かご存知です。しかし、私たちは自分が本当には何を望んでいるかということがわからないのです。それをを知るためには、人生における試練が必要なのです。それに直面し、悩み苦しむ中で、誰もがそれを見出していかなければならないのです。
自分が親であるならば、神が必ずこの子に良い物を下さる。全てを益として下さるという確信をもって見守らなければなりません。それは簡単なことではありませんが、
そのような思いの中にこの「探せ、求めよ。門をたたけ」があるのです。

今米国、というよりトランプ氏がしていることは、「俺は他者の手は借りない。自分だけの力で何とかしてやる」ということです。人を信頼するより、自分の力で相手を支配することで自分の思いを実現していこうとしています。しかし、聖書はそのような営みはことごとく失敗したと言っています。いっとき成功するように見えても、それらが成功したためしはないのです。
そうではなく、私たちはイエスのもとに道を探さなければなりません。
7:11「ましてあなたがたの父は求める者に良い物をくださるのちがいない」と言われていますから。
こっちにもあっちにも足を突っ込んで、そのうちのどれかは当たるだろうと淡い期待に縋るのではなく、神の約束に期待し、そこに自分の人生を置くことが必要なのです。
そうしなければ神が言われていることの意味を知らないで過ごしてしまうことになります。
神の約束に立ち、神の御言葉を実践し、神の光を指し示す者として歩んでまいりましょう。


お祈りします。



2017年1月22日

宣教『幸いなるかな、心貧しき者』
マタイによる福音書5章1~12節


聖書箇所


メッセージの要約

テレビを観ていましたら、トランプ大統領が礼拝に出席している様子が映し出されていました。どんな思いで礼拝をしているのだろうと不思議に思いました。そのすぐ近くで、デモをしている人々がいるのです。いったいどんな思いでイエスさまと向かい合うっているのだろうと思いつつ、テレビを観ていました。しかし、それはトランプさんだけにかぎりません。私たちも、礼拝に出ていても、自分の中にさまざまな矛盾があることを知っています。たとえ周りから「あなたは立派なクリスチャンですね」と言われたとしても、自分はとてもそんなものではないということを分かっています。でも、だからどうすればいいというのだと、逆に開き直りさえする、そういう自分が私の中にもいます。

今日、私たちは聖書の中でも理解するのが最も難しいと思うような聖書の箇所を一緒に読みます。
「心の貧しい人々は幸いである、
悲しむ人々は幸いである、
柔和な人々は幸いである、
儀に飢え渇く人々は幸いである、
憐れみ深い人々は幸いである、
心の清い人々は幸いである、
平和を実現する人々は幸いである、
儀のために迫害される人々は幸いである、
わたしたちのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。」

この言葉はまるで私たちの思いを逆なでするかのようです。私たちが幸いだと思うところとは全く違った所に光をあてるのです。実はこの聖書の箇所はある時期非常に不幸な用いられ方をしたことでも知られています。それはアメリカの開拓時代、土地を開墾したり、広大な農場を運営するために、アフリカからおびただしい奴隷が連れてこられたことをご存知でしょう。その黒人たちの反感を抑え付けるために、雇い主たちは奴隷たちにキリスト教を奨励して、彼らの教会を立ててやったのです。どういう意図があったかというと、聖書はこう書いてある「貧しい人は幸いだ。悲しむ人は幸いだ。」だからあなたたちは幸いな人達なのだ。そのようにして、「肌の色は違うけども、あなたたちも神さまに愛されている。だから人を恨んだり復讐を企てたりせず、一生懸命に働きなさい。」そのように支配する者にとって都合よく解釈され用いられた歴史があるのです。
では、この聖書が真に語っているところは何なのか、ご一緒に受けて行きたいと思います。
題に「山上の説教」と書かれていますが、以前は「山上の垂訓」とよく言われました。しかし、そこには道徳のような教訓的な言葉の響きがあって、今はあまり使われません。イエスさまが語っていることは「教訓」ではありません。それは「説教」がふさわしい訳だと思います。キリスト教の説教とは、「ここに神の救いがある」と宣言すること。それが説教なのです。私たちの心に逆行することのように思われるかもしれませんが、「心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである…」そこに神の救いがある。そうイエスさまははっきりと宣言されたのです。私たちは神の救い、神の祝福をどこに探しているでしょうか。私たちが幸いとすることは、事柄が自分の思うとおり運んでいる、そうすると私たちは神に愛されて、祝福されていると思いがちです。しかし、イエスさまは私たちが思いもしない所に、幸いを宣言されているのです。
イエスさまは心の貧しい人々、悲しんでいる人々、そういう方々がやがて幸いを、慰めを受ける。だから幸いだと言っているのでは決してないのです。また、ご自身の価値観を私たちに押し付けているのでもありません。イエスさまは心から、貧しい人々、悲しんでいる人々、あなたたちは幸いな人だと呼ばれるのです。
先程も話しましたように、黒人の奴隷たちに対してその雇い主が「貧しくても、悲しくても文句を言ってはいけない」と、聖書の言葉を使って黒人を押さえつけていたという事を紹介しましたが、この言葉は決して悲しんでいる人達や、貧しい人達を抑えつけるために言っている訳ではありません。私たちは富んでいて、悲しみを忘れることが出来て、自分の力を思うままに振舞うことができる。そういう所に幸いがある。そうでもなかったら幸いなんて言えない。そういうふうに思っていないでしょうか。
聖書を読んでみますと、マタイの福音書だけ読んでみましても、その言葉が一番信じられなかったのは、すぐ側にいた弟子たちだったことがわかります。この後、ペトロはイエスさまが「私は多くの苦しみを受け殺される」と、ご自身の受けられる苦難を口にだされると「そんなことがあってはなりません」とイエスさまを諌めようとしたのです。イエスさまは、そういうペテロを厳しく戒められました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。また、最後の晩餐のすぐ後で、「誰が一番後継者にふさわしいか」そんなことを弟子たちは論じあったのです。人の上に立つことが幸いであって、人の下に立つことに幸いがあるなんて弟子たちでさえ信じられなかったのです。イエスさまは、そんなふうに私たちが思ってもみない所に幸いを宣言されました。
また、イエスさまは、幸いを私たちが死んだ後に得られる物としては考えていませんでした。「あなたは、地上において幸いを味わうことが出来る。」と語っているのです。弟子たちは何故、イエスさまが言われたことを直接聞いたにもかかわらず信じることが出来なかったのか。それは、イエスさまが語られた中に十字架を感じ取ったからだと思います。イエスさまは、御自分が語った責任を十字架においてお取りになりました。私たちがこの言葉を聞いたときにそれに対して嫌悪感や怖れを抱くのは、直感的に十字架の苦しみを感じ取るからだと思います。苦しみなんてないほうがいい、貧しいよりは富んでいる方がいい、命令されるよりは、人に命令する方がいい。しかし、イエスさまの言葉はその反対で、その言葉の背後に十字架が透けて見えるからです。私たちは、この世が幸いとしてもてはやしているものを手に入れることが幸せなんだというふうに単純に信じている。それをイエスさまが壊そうとしていると思えて抵抗したくなるのです。
私たちはこれは幸せ、これは不幸と勝手に自分で造っているのではないでしょうか。そして、自分の思っているものが手に入らないと、そういうのは望んでいないと撥ね付けるのです。いま、自分が置かれていることの中に幸いを探そうとしない、そうして自分は不幸だと勝手に決め付けていないでしようか。イエスさまは「ここに神の祝福がある」ごくごく単純にそう語られたのです。しかし、実際それを引き受けてやってみると「あなたがそう言われましたから、私なりに頑張ってみましたけれど、もう耐えられません。」そんな思いになったことがだれしもあると思います。頑張ってみたけど続かない。そこから先が信仰の世界なのです。
あるお坊さんがこんな事を言っていました。「私たちが思う苦しみとは、誰が作り出したかというと、その本人が作りだしたものだ。その人が作り出しているなら、その人が何とかできるのです。」と。これは一見筋が通った話しですよ。でも、私たちの現実はどうでしょう。確かに自分で作りだしている。自分の心の持ちようで何とかできるというレベルのものもあるかもしれませんが、しかし、「悩まない、私が悩むから苦しくなるのだ」と頭でいくら思っていても、それでは如何ともしがたかったという経験がありませんか。聖書が私他たちは罪人であるというのには深い理由があります。それは、私たちはイエスさまの助けをいただきながら自分の直面している現実に相対することを求められているということを指し示しているのです。イエスさまと共に歩む中で、自分の力のなさを痛感させられつつも、自分の思い違いの一つ一つを指摘され、その中で幸いというのは何処にあるのかということを見出すのです。

この信仰の世界の豊かさがどうしてもっと広がらないのだろう、なんでこんなに福音の宣教が一向に進まないと思われるかもしれませんが、いま、私たちは自分自身の人生の軸を何処においているか点検する、そのことを私たちがはっきりさせていかなければ、教会の業が前進することはありえないのです。なぜかというと、宣教とは私たちの生き方だからです。私たちがみ言葉を一心に、まともに、生きること無くして、いったいどうやってこの世の人々は神の真実がここに、聖書に、教会にあるということを受けることができるでしょうか。
私たちが自分の力のみにたよって人生を消耗していけば、私たちは自分自身を不幸に追いやっているだけではなく、周りをも巻き込んで、不幸に追いやって行く可能性があるのではないでしょうか。イエスさまに立ち返って、福音を信じてそれに賭けてみる、教会の信仰生活の命はそこに掛かっているのではないか、そのように思うのです。

 

お祈りいたします