8月30日主日礼拝


メッセージ(動画)



メッセージ(テキスト)


キリスト教で時々使われる言葉に「経綸(けいりん)」があります。わかりやすく言えば、「神による人間の《救済》の全体計画」とでも言いましようか。思い返せば、アブラハムを神がお選びになって、その子イサク、さらにその子ヤコブ、そしてその子ヨセフが兄弟間の確執から奴隷としてエジプトに売られ、しかし、そのことによってヤコブの一家は生きながらえることができたのでした。ヤコブの一家がエジプトに移住して430年が経っています。最後の100年近くはエジプトによる迫害に遭って民族の存亡の危機に立たされていました。なぜもっと早く神は介入なさらなかったのでしょうか。モーセを訓練する期間が必要だったとしても、80年間は長すぎるんじゃないでしょうか。すぐに役立つような人が本当にイスラエルの中にいなかったのか。等々、神さまに問いただしたいことは山ほどありますが、しかし、私たちがどんなにじたばたしたとしても、神はご自身のご計画でもって事を進めていかれます。その全体像があらかじめ分かっていれば、葛藤せずに済むのかもしれませんが、私たちに見えるのは直近の出来事だけです。


モーセがファラオの前に立って、神は10個もの災いをエジプトの地にもたらされました。しかし、エジプト王ファラオは聞き入れず、でも、そうしたのは神ご自身だと書かれているのでますます訳が分からなくなります。神がファラオの心を柔らかくして、それによってもっと早くファラオが決断していたら、エジプトの人々も余計な苦しみを味わわずに済んだのです。初子も死なずに済みました。時短、効率といった観点から見れば、非効率極まりないやりようです。また、なぜ前の災いをすっ飛ばして最初っから初子を撃たれなかったのか、とも考えてしまいます。しかし、神の救いはイスラエルの人々だけを対象としたものではありません。いずれはエジプトの人々をも救おうと神は考えられていたはずです。この神とファラオを筆頭とするエジプトの国との駆け引きは、エジプトの神々との戦いという一面も持っていたのではないかと思います。後々、キリスト教がここに伝えられた時、キリスト教の神がどのような方であるかをエジプト人の心に刻みつけるために、このような手間をかけられたのかもしれません。


そして、私たちキリスト者にとっても、これは単なる前史ではありません。こういう時代にこれこれのことがありまして、それが主の晩餐の背景にあるというだけの話ではないのです。教会はこの出エジプトの物語を主の救いの出来事のアナロギア(類比)ととらえてきました。つまりこの物語の中にイエスがなされた救いの業が透けて見えるのです。
どういうことかというと、この時男だけで60万人もいたわけですから、リーダーになりそうな者も一人や二人ではなかったはずです。しかし、敢えて一人の赤子を選び、80年もの時間をかけて備えられたのです。それによって何が生じたでしょう。ユダヤの民は人数こそエジプト人が恐怖するほどいましたが、その多くが奴隷または牧畜で生計を立てておりました。人々をまとめる組織もなく、軍隊はおろか戦闘訓練さえ受けていませんでした。ですから、いきなり神さまに「君、リーダーをやりなさい」と言われても、何をどうしたらよいか理解できる者はいなかっただろうと思います。しかし、モーセは王族の子として、帝王学、天文学、政治学、建築学、軍隊の組織と戦術等々を教授されたと考えられます。さらに、ミディアンの地では、一人の小さな弱い人間として荒れ野で生き抜くすべを一から学んだのです。ここに知識と実践の両方を兼ね備えた一人のイスラエル人のリーダーが育成されたのです。もちろんモーセには自分の人生の背後にそんな計画があることなど知る由もなかったと思いますが…。しかし現実に、モーセのための時間をかけたご計画よって出エジプトという出来事の準備が整ったのです。


これは実はイエスにも同様のことが言えます。イエスさまは神のみそばにおられたときは神が持っておられるものと同等のものをすべて所持しておられました。しかし、罪の力に捕らえられた人間を連れて神の国へと脱出するためには、一人の人間とならねばならなかったのです。人間でなければ人間と共に歩むことはできませんし、一緒に神の国への道筋をたどることもできないからです。何より、人間の罪ですから、人間が償う以外ないのです。そんな面倒なことをしなくても、直接神が許すと人間に向かって宣言すればいいではないかと思われるかもしれませんが、それでは人間は自分の罪を知ることも認めることもできなくなってしまったでしょう。


イエスは、ユダヤ人が祝うこの過ぎ越しの祭りの日に十字架にかけられました。(イスラエル人の一日は夕べに始まり、次の日の夕暮れまでなので、正確にはその準備の日)ヨハネによる福音書によれば、イエスは3時に息を引き取られたとあります(ヨハネ19:31)が、その時刻は神殿でいけにえの小羊が屠られる時であったと言われています。バプテスマのヨハネはイエスを見た時に「見よ、神の小羊」と叫んだ(ヨハネ1:29)とありますから、出エジプトに当たってイスラエル人が殺されないために屠られた小羊と、すべての人間の罪の赦しのために殺害されたイエスが重なっています。ですから、主の晩餐を祝う時、教会はイスラエルの民が真に神の民となるために新しい土地へと神に率いられて過ぎ越していったように、イエスの死によって罪を贖われ、イエスに率いられて、人が一緒に生きることが絶望的に難しい世界から、死の淵を超えて、人が一緒に生きることができる世界へと過ぎ越していく者とされたことを心から祝うのです。ある牧師がこの祝いの力を次のように表現しています。「原爆のエネルギーをも吹き飛ばす神のエネルギーが、この主の食卓に込められていることを信じない者は、この世に本当の平和をもたらす事はできないと、私は堅く信じている。」と。


8月23日主日礼拝


メッセージ(動画)



メッセージ(テキスト)*準備中


8月16日主日礼拝


メッセージ(テキスト) あなた方はわが証人


おはようございます。
本日は、坂田牧師ご一家が夏季休暇にてご実家に帰っておられますので、代わって私がメッセージをさせて頂きます。他の教派などでは、牧師が休みになっても信徒がメッセージを行うのはあまりないのではないかと思います。はっきり言って大変です。
聖書の解釈である注解書をただ棒読みするだけでは当然ダメでしょうし、祈っていくなかでこの箇所が示されるものなのかなあと思っていたりで、ホントわからないですね。別に牧師になるための召命とか勉強とかわからないし、やっていませんしと嫁さんとかは曰く、「この1ケ月間は清い生活を送っていただかないと」言われますし、「牧師だと年がら年じゅう清い生活なの?やっぱり絶対無理やわ。」牧師という仕事は大変やなとつくづく思います。今回もメッセンジャーの方の受け売りもあり、申し訳ございませんが話しを進めさせて頂きます。
さて、私が初めてメッセージを行ったのが前にも申し上げたかと思いますが、26歳位の時で箇所はイスラエルが約束の地に入る手前での民の不信仰な出来事と、新約聖書でのイエス様が長血を患っていた女性で癒されたことの奇跡について語りました。イスラエルの民が目の前で主が奇跡をずっと行ってきたのを目の当たりにしているにも関わらず、約束の地で強大な敵を前にして、一人の人以外はやめようと言ってしまい、しり込みをした話と、まだ話もしていないのにイエス様のふさに触りさえすれば癒されると信じて、癒されて「あなたの信仰があなたを救った、安心していきなさい」と言われた。このことを対比して私たちも後者でありましょう。と言ったかな。記録がないので、記憶しかありません。「奇跡」それは私たちには希望にもなるし、つまづきにもとらえようにあってはなりうると思います。聖書は確かに「出来事を書き記した本だ」言っておられる先生もおられます。ただありのままのことだけでなく、そのことが何をさしているのかが重要です。私たちはあったことを分解・分析していけば意味が洗い出されてくるのではないかと思いこまされています。でも聖書の伝える意味はイエス様の復活の体験後からになって悟り、知っていくと言われています。旧約においても新約でも神様は数々の奇跡を行われています。新約においてはイエス様となり人となり奇跡を行っていますが、当時の人々や弟子でさえも理解できなかった。イエス様が十字架につけられ、死んで葬られ、三日後によみがえってからです。そのことを弟子たちが熟知し、悟れたことでつかわされー宣べ伝えー聞いて-信じてー主を呼び求めてー救われるとのパウロさんの言う救いの連鎖が出てきます。求道中の方などは聞いてー信じることが重要です。しかし、教会で信じる者の集まりでは宣べ伝える(決して口頭だけでなく、信仰生活を通して)が重要です。これなしでは、他の人々が救いの喜びに含まれる可能性がないからです。そうすると、主と私たちとの関係とはどうなっているのでしょうか?イザヤ書43章10~12節(旧約聖書P1131)にはこうあります。新共同訳ではなく、口語訳で話します。今回はその方がわかりよいからです。お読みします「主は言われる。あなた方はわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたはわたしが主であることを、知って信じて悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。ただわたしのみ主である。わたしのほかに救うものは、ない。わたしは告げ、かつ救い、かつ聞かせた。あなたがたうちに他の神はないと。あなたがたはわが証人、わたしは神である。主は言われる」となります。今から何千年も前にこのような対置型の美しい現在にもつながる言葉がかきとめられているとは驚嘆でしかありません。あなたがた、しもべ、わたしは神がひとくくりにされることは、神様と私たちとの間に生ずる命の交わりを表します。共同訳にもありますが、ここにある「しもべ」とは奴隷関係ではありません。人は神の奴隷として造られたのではなく、語りかける神様に耳を向け、その呼びかけに賛美をもって応えるためです。ここでのしもべとは話し合えるパートナーと言ってもよいほどに親しく信頼する相手といった意味で使われています。神様はここまで私たちのことを気にかけて下さるとは何と言う恵みでありましょう。話を奇跡に戻します。新約聖書でもイエス様が数々の奇跡をおこなっておられます。嵐をしずめたりの自然相手の奇跡、病気を治したりの癒しの奇跡、悪霊を追い出したりの悪霊追放の奇跡があります。今回は5000人の人が食べて満腹した奇跡を取り上げてみます。マルコによる福音書6章34節~44節(新約聖書P73)です。この奇跡で注目したい点があります。パンと魚を食べて満腹になりましたが、どこにも増えたとは書かれていません。他の福音書でも同様に触れていません。へ理屈と言われそうですが、パンの増える奇跡をとらえるならば、もっとこのことを描くべきですが、パンが増えることよりももっと大切な事を伝えたかったのではないかと考えるべきです。文面を読み返すと飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」「皆を組に分けて青草の上に座らせ」とありますが、何かに気づきませんでしょうか?旧約聖書にこのイメージ通りの箇所があります。有名な詩編23編です。(旧約聖書P854)ですから、ここではパンが増える事よりも旧約聖書で民を養うと約束してくださった神様が私たちのうちに現実となった、それがイエスであると告白しています。ここに旧約聖書と新約聖書の関連性があります。アルファでありオメガである神様は何も変わりません。いつも同じです。新約聖書の新しさは、神様と人間の橋渡しが言葉や文字であった時代が終わり、イエス様とその愛による新しい時代が到来したところです。奇跡はしるしです、その「しるし」はイエス様は誰なのかを示していることでしょう。それを信じますか?では「しるし」とは何ぞやと思いますが、現在にたとえると道路標識みたいなものだそうです。車の運転手はその標識を見て、その指し示す意味を理解し、その対応した運転をします。その標識の材質・建てられ方などに意味はありません。運転が出来る人がみることによって意味がわかるように信じていなければ奇跡の話しはつまづきです。奇跡は信仰告白の招きです。
あなたの信仰があなたを救ったとイエス様が言われた通り、信仰が(信じることが)前提なのです。奇跡を見たから信じますではないのです。バプテスマのヨハネでさえ来るべき方はあなたですか?との問いかけにイエス様は私がそうだと言っていません。起こった出来事だけを話し、判断を逆にゆだねられます。信仰は完成形をあたえられるものではありません。私たちもそうですし、教会もそうですし、上から目線ではありませんがたとえ牧師であってもそうだと思っています。神様のメッセージである今日のみ言葉を口語訳で読み返します。ここでのイスラエルは私たちのことでもあります。「ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った。あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。」これからも神様からの愛の中に生かされ、気づかされる教えに期待していきたいと思います。コロナウイルスが猛威をふるっているなか、感染・健康に注意しつつ共に信仰の道を歩んでまいりましょう。お祈りいたします。


8月9日主日礼拝


メッセージ(動画)



メッセージ(テキスト)


今日からしばらく出エジプト記から主の命を受けていきます。
ヤコブの子孫がエジプトに来てすでに300有余年。ゴシェンの地で増え広がりました。其の増え方はエジプト人に脅威に映るほどになっていました。ヤコブたちの生業としていた羊飼いが、エジプト人の忌み嫌うものであったことと、違う神を信仰している事から、このゴシェンの地に住むこととなったわけですが、双方の相互理解は進むということは全くというわけではなかったと思いますが、残念ながらそんなに進まなかったようです。
そのためにエジプト人は、ヘブライ人たちが近隣の諸外国と組んで反乱を起こし、立場が逆転するかもしれないという疑念をいだき、ヘブライ人の人口を抑制する政策をとり始めました。しかし、それは逆に彼らの人口増加を招くことにつながってしまったのでした。


いったいなぜこんなことが生じたのでしょう。ヤコブの子どもで最初にエジプトに来たヨセフは、宰相にまで上り詰めました。とんでもない災難や苦難を何度も味わいました。しかし、彼の神は彼をその度に強く大きくされたのです。それを間近で見ていた人が何人もいたはずなのに、彼の信じている神に改宗する人は現れなかったのかなと思います。実際聖書のどこにもそのことに触れられてはいません。
神はご自身とご自身の救いの計画を進めるために、一つの小さな家族を選ばれました。それは今や一つの民族と呼ばれるほどになりました。私は神がなぜこんな回りくどいことをされたのかいまだに疑問を持っています。各民族から代表をご自身のもとに呼び集め、巨大なスピーカーでご自身の思いや願いや主張を届けるという手法もあったと思うのです。しかし、神が取られた方法は実に時間がかかり、また失敗のリスクが極めて高いものでした。なぜなら神とは比べ物にならない弱く小さな人間という生き物を用いようとされたからでした。神の思惑はこのようなものだったのかもしれません。神の導かれる民が祝福され、順境の時も逆境の時も神から離れず、喜びと感謝と世界への畏敬を持って暮らしている。その生き方を見て近隣に住む者たちが「なんか素敵な生き方をしている者がいるなぁ」とうらやましく思い、ヘブライ人の生き方をまね、そして彼らの背後におられる神を信じるようになると。しかし、残念ながらそううまくはいかなかったのです。

 

イスラエルの人々はアブラハム、イサク、そしてヤコブにご自身を表され、共に歩まれた神を信仰していたと思います。しかし、そのイスラエルと言えど、自分たちだけで生きていくことなどできないことも分かっていたと思います。また、エジプト人が信仰しているのは人間がこの世で栄達をつかむための神であることも知っていたでしょう。しかし、彼らが神よりいただいたこの信仰をどのようにエジプトの人々に伝えていけばよいのか、またそもそもそのようなことをする必要があるのかということについても考えたような形跡はありません。生きるのに必死だったということもあるでしょう。ですが、これは私たちへの警告でもあると思うのです。私たちは今やたくさんの価値観の違う人々の中で生きています。彼は彼、私は私。それでうまくすみわけができていれば問題はありませんが、今や全く価値観の違う者がすぐそばで共に生きているのです。そのような中で共に生きていくには、お互いを知ることなしには、分かろうとしない限りは、問題が生じた時は戦うしか方法はありません。


そのような歴史をこの後も繰り返してイエスさまを神は私たちのもとへ送られたのです。それはイスラエルに自分を出て相手へ一歩踏み出すことを求められた出来事だったのではないかと思います。わからずやで、理解などできないとあきらめてしまえば、ぶつかるのは時間の問題で、あとはやるかやられるかとなってしまいます。この書を悪いエジプト人に、良いイスラエル人がいじめられる物語としないで、そこここで対立が深まっている現代に、私たちにはいま何が求められているのかを考えていく機会と出来たらと願っています。


8月2日主日礼拝


メッセージ(動画)



メッセージ(テキスト)*準備中