あなたへのメッセージ


2018年12月2日

宣教「初めに終わりを思う」

マタイによる福音書28章16節~20節


聖書箇所

 28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
 28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
 28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
 28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


メッセージの要約

2018年の最後の月になりました。
先週医療講演会が行われ色々な質問ができましたが、癌になった方に自分ができることはなんだろうかと質問された方がおられました。自分にできることが何もなくとも、一つだけできることがあります。それは「共にいる」ということであります。癌になって苦しんでいる方と一緒にいることは避けたいことかもしれません。自分の無力さを知らされるし、死は恐ろしいものでもあるからです。
でも私も死が間近いと知ったら、やっぱり誰かに手を握っていてほしいと思だろうと思うのです。誰かが自分のそばにいてくれるとき、私たちは真の安らぎと目の前の物事に向かい合う力を頂くのではないでしょうか。
私は牧会をしているときそういうことに出くわします。「いつまで闇の中にいなければないのですか」と問う方に対しても、苦しみの中で「神様なんているのですか」と叫ぶ人に対しても、ただ一緒に神様の助けを祈りましょうというしかないときがありました。それでも逃げないでその人と一緒にそこにいることを通して、神さまの恵みを一回一回味あわせていただきました。
私たちは私たちに降りかかる問題は解決しなければならないとものと思ってしまいます。しかし問題というのは私達が大事なことに気づくためのきっかけにもなるのです。私達が限界を持った者であり、だからこそ自分を超えた方によりたのみ守られることを経験する最もよい時なのです。
だから私の仕事は単に苦しみを聞いて解決の方法を示すことではありません。その人がその苦しみを十分に苦しめるようにただそこに居続けて見守るということなのです。
解決策を与えるほうが苦しみに早くピリオドを打てますが、それは決してその人の成熟にとって本当の意味のプラスになることはないのです。
もし神様の御心を私達が信じているとしたら、神様がその人その人に与えられる試練がその人が通らなければならない道筋なのだということを心に留めることこそ大事なのではないでしょうか。

今日私達はマタイによる福音書の中のイエスの復活の場面を与えられました。
弟子達にとってこの人こそと望みを抱いていた望みが打ち砕かれ、しかも自分たちはイエスに何もできなかったのです。自分達がその人のためになら死んでもいい、あなたにどこまでもついて行きますと言っていたのに、逃げ去ってしまったのですから。彼らの挫折感は自分が生きていていいのだろうか、これから自分はどうやって生きていったらいいのか、考えても考えても結論がでない、そのような中に置かれていただろうと思います。
そこへイエスが現れて、「恐れることはない。あなたたちと共にいる」と再びその約束を下さったのです。
神は私達と既に共にいてくださいます。「わたしは世の終わりまで共にいる」これは私達がこの地上で歩んでいる間だけでなく、地上の人生を終えて神の御許に行くとこもそうですし、私達がこの世に生まれる前から神は共にいてくださったとそこまで含んでいる言葉です。
弟子達の中にはイエスに直接会っても、まだ疑う者までいたと書かれています。
私たちもいろんな証拠を見せられても、単純に信じることができない意固地さというか、心の中にトゲトゲを持っている者です。にもかかわらず神はそういう私達を見放すことなく共にいることを宣言なさっているのです。
マタイによる福音書の1章23節を見てみましょう。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。この言葉は旧約聖書からの引用です。
その旧約聖書とはイザヤ書7章14節です。
「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」
イエス様がお生まれになるずっと以前にこのようなことが語られました。
そして「共にいる」ということを神様はずっと歴史の中で語り続けてこられたのです。
創世記26章24節を見てみると、それはアブラハムの子、イサクに対する言葉が記されています。
「イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。その夜主が現れて言われた。『わたしはあたなの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。』」
イサクの子ヤコブにも神は語られました。創世記28章15節を見てみましょう。
「見よ、わたしはあたなと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」
どんなに苦しい思いをしていたとしても、自分が負のオーラを発していても、そばに誰かがいてくれたらどんなに救いになるだろうかと思いませんか?普通ならばもう勝手にすればと言われるところなのに、たとえ罵詈雑言を浴びせても、そばにいてくれる人がいたらきっとあなたの救いになるでしょう。
共にいることは、何かを語る以上の行為であります。
この後、神はモーセにもヨシュアにも、ギデオンにもこの言葉を語られたのです。
先に述べたイザヤ書7章では、まさしくイスラエルの人々の心が大きく揺れ動いているときに与えられた言葉です。
まだ人々はイスラエルの国にはいます。しかし大軍が攻めてこようとしている、イスラエルの王はそのことに関心を払わず好き勝手やっている、民衆は飢えで苦しんでいる、外にも内にも数え切れない困難を抱えている中で「わたしはあなたと共にいる。やがてみどり子が与えられる」という約束が語られたのであります。
イエス様はこのクリスマスの時にこの地上にお生まれになりました。しかしその生まれた場所は飼い葉桶のあるようなところでした。飼い葉桶はこの当時、石をくりぬいて作られていました。藁を敷かれていても冷たいですよね。そしてドアとか開けっ放しのところにそれは置かれていたと想像されます。
そしてそこで生まれたイエスの最後は十字架の死でした。弟子達からも裏切られ死んでいかれました。復活してもなお疑う者もいました。そのような弟子達に対して、「私はあなたと共にいる」という約束をくださったのです。
私達は時々右に左に揺れ動いて、自分の持てるものを持ってあがくものですが、神はそのような私達をあざ笑わないで大丈夫と語りかけてくださるのです。そのような方をこれから私達はお迎えするのです。
クリスチャンというのは他の宗教と違って、神は必ず私たちと共にいて、私たちをご自身の住まいに導き入れられると約束を受けたものです。
私たちの人生には挫折や失敗はありますが、どんなに悲惨なことも神のご計画の中にあるのであって、一つ一つが用いられると信じることができるのです。暗闇の中に置かれるということも、私たちが真に光りの中に出ていくためのまさに準備期間なのです。
お母さんのお腹から誕生する時を待っている時なのです。だから慌てる必要もありません。
そうは行っても苦しいときには早く抜け出たいと思うのが人情ですが、イエスキリストも私たちと同じように、問題だらけの中を人から差別され痛みつけられる中を通っていかれたのです。父なる神もその苦しみを見ながらも手を出されず、子なるイエスを十字架に渡しさえされたのです。その時の父のつらさと苦しみはいかばかりだったでしょうか。なぜ私を見捨てるんだと叫ぶイエスキリストに対してさえそれを黙ってお受けになっていったのです。
私たちもいろんな場面でその場から逃げ出したいと思うことが沢山あるかもしれません。
しかしこのクリスマスの時だからこそ、そこで神の言葉にじっと耳をかたむけてまいりましょう。
神はわたしたちと共におられる、あなたと共にいると語りかける声に耳を澄ましていきたいと思うのです。



2018年11月11日

宣教「新しくされたもの」

イザヤ61編1~11節


聖書箇所

1主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣

 わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を

 包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるた

 めに。

2主が恵みをお与えになる年わたしたちの神が報復される日を告知して

 嘆いている人々を慰め

3シオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶらせ嘆きに代え

 て喜びの香油を暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは

 主が輝きを表すために植えられた正義の樫のと呼ばれる

4彼らはとこしえの廃墟を立て直し古い荒廃の跡を興す。廃墟の町々代

 々の荒廃の跡を新しくする。

9彼らの一族は国々に知られ子孫は諸国の民に知られるようになる。彼ら

 を見る人はすべて認めるであろうこれこそ、主の祝福を受けた一族で

 ある、と。

10わたしは主によって喜び楽しみわたしの魂はわたしの神にあって喜び

  踊る。主は救いの衣をわたしに着せ恵みの晴れ着をまとわせてくだ

  さる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ花嫁のように宝石で飾って

  くださる。

11大地が草の芽を萌えいでさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように

       主なる神はすべての民の前で恵と栄誉を芽生えさせてくださる。

 


メッセージの要約

み言葉が私のために今日開かれたと思っておられる方もおられるのではないでしょうか。
「シオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶらせ嘆きに代えて喜びの香油を  
 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」(イザヤ61:3)
嘆いている方、暗い心を一週間見つめ続けた方もいらっしゃるかもしれません。また心がバラバラにされたようになってうずくまっておられた方もおられたかもしれません。今日のみ言葉はあなたのためです。
神様は今日あなたをここに連れてきてくださり、神の命の言葉を響かせてくださったのです。イスラエルの民は捕囚というみじめな、暗いできごとに直面させられて、にげようのない中を生きなければなりませんでした。
イザヤが活躍した時代では王国はまだ健在でした。しかし王様は自分勝手なことをやり、人々も思い思いのことをしだして、神様がどんなに預言者を遣わしてもその預言者のいうことを聞こうとはしなかったのです。
それゆえに神はバビロニアという国を通してイスラエルの国は罰せずにはおれなかったのです。
イザヤイスラエルの上に降りかかろうとしている災厄をなんとか食い止めようとあるときには裸になって紐をぶらさげて人々の前を歩いたこともありました。
彼は決して綺麗な衣を着ておいしい食事を食べながら神の言葉を取り次いだのではありませんでした。しかしそのようなふるまいがかえって神様という存在を誤解させたかもしれません。神の言葉に従わなかったらそうなると表していたのですが、人々はそんなイザヤに目も耳も心も閉ざしていったのでした。
イザヤ書は南ユダ王国滅びるまでイザヤが神から受けた言葉を警告として人々に発した内容が書かれているのが1章~39章まで。そしてイスラエルの民がバビロニアに連れていかれて、その中で神が預言者を通して人々に希望を示し続けられた内容が40章~55章。56章からがイスラエルの民が解放されて自分達の国に戻ってきて、そこで生きていくために語られた言葉であります。
紀元前538年ペルシャという国が起こり、ペルシャの王がイスラエルの民に自国に帰る許可をだしたのでした。それでイスラエルの人々は自分達の国に帰ってきました。今日のところはそのような中で語られました。
奴隷として捕囚の民として辛酸をなめてきたイスラエルの人達はどんなに喜んだことでしょう。やっとこれで人間らしい生活ができると思ったでしょうか。しかし許可を得て帰ってはきたものの、自分たちの国で新しい生活を立て上げようとしても全く楽にはならなかったのです。捕囚の民にはならずに、その国で生きることを選んだ人たちが帰ってきた人々を快く迎えたかというとそうではありませんでした。かつて土地を保有していたもの
にとって、そこは今は他人の所有になっているわけですから両方の間に争いがおこるわけです。既に新しい生活を始めていた人にとっては自分達の生活がおびやかされるということがおこりました。また近隣の国々もイスラエルが再び力を持つことを望みませんでした。ですから外部からも絶えず攻撃を受けなければなりませんでした。この紀元前500年からイエス様がお生まれになる紀元0年まではイスラエル史の中では暗黒の500年と言われます。
500年間を将来が見えない中どうやって生きていったのだろうと思います。自分自身が暗黒の中に消えていくような思いも味わったでしょう。しかしそんな中、彼らを支え続けたものを結局は神の言葉以外にはなかったのです。

石川啄木という方をご存じでしょうか。
「働けど働けどなお我が生活楽にならざり  じっと手を見る」
石川啄木は東北の方ですが、20歳くらいからは東京にでて朝日新聞で校正の仕事で働き26歳で亡くなられた。生活は楽ではなかった。家庭内では奥さんと母親のいさかいが絶えず、また彼自身体も弱かった。残念ながら彼は生活に耐えきれず、周りから借金をし、また温泉で女性と遊ぶこともやった人でした。たとえ一時でもいいから苦しみから脱出したいがためだったのでしょう。しかしそれは体の弱かった啄木の体と心をむしばんでいっただろうと思います。
じっと自分の手を見ると詠んだ時の啄木の思いはどんなだったかと思います。
イスラエルの民もそれと似たような状況に置かれていたのではないでしようか。
もし彼らが語りかけてくれる神を知らなかったら、何年も続く苦しみの中を生き抜いて行くことは不可能だっただろうと思います。
よく暗黒の500年を民族の統一を失うことなく、神への信頼を失うことなく生き続けることができたなと思うのです。

昨日の朝日新聞のコラムにこういう言葉が載っていました。
俳優の宇梶剛さんが書かれたものです。
「希望を胸に主役を張ろう。10代の頃、親や教師、大人を憎んでいた。すさんだ心で事件を起こし、世の中から転がり落ちた。20歳になり生まれ変わると誓って歩き始めた。でも自分の中の黒いもの、憎しみや怒りが消えずに苦しんでいた。そんなとき、美輪明宏さんに出会って言われた。『美しいものを見なさい』と。そして気づいた。世の中ってきたねぇと憎み続けることで逆に自分の心が悪に支配されていたんだと。
世の中に悪って一杯ある。その最たるものが戦争だけど、どうせ戦争はなくならないではなく、戦争はなくなった方がいいと思い続けることだけが戦争という悪を押し返す。
美しいものを見なさい。」
宇梶さんがそれまで見続けていたものは、自分の中の黒いもの、生きる中で感じ取ってきた憎しみや怒りでした。それをずっと自分の中にかかえそれだけを見ていたとのこと。私達も同じように、挫折、失敗、人との関係が壊れる、何かを失うなどを経験します。もう取り返しようがないことだと分かっていても、いつまでもそれにこだわり続ける。そしてなぜ自分にそれが起こったのかと問う、あの人はいいなぁとうらやむのです。
私達は自分が見つめているものによって私達の心も影響されます。
私達がなぜ神を知らなければならないのか。
それは私達が見ている現実以外にこの世界にはもう一つの世界があるからです。それは神であり、その神が下さる御言葉であります。
「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。
 私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を  
つながれている人には開放を告知させるために」(61:1)
私は捕らわれている。私は貧しくてどうしようもない。私の心は今打ち砕かれていす。
助けがほしいのは私だと思っていた時期が皆さんにもおありになるでしょう。しかし神はそういう私達を私達の周りに遣わされるというのです。私達は自分が癒やされなければならない、今はそういう時だと思い込んでします。しかし私達の周りを見てみると、例えば傷ついているのは私達だけでしょうか。苦しんでいるのは私だけでしょうか。確かに私の苦しみは私だけにしかわからない。私独自のものです。でも私達はイエスキリストにより、罪を赦され救いを与えられている。私達はどこに目を注ぐべきなのでしょうか。私達は何を見、何を聞くべきなのでしょうか。神は私達を遣わそうと願っておられます。
だけど私達が神の方を見ない、言葉も聞かない、そんな中ではずっと自分がかかえている暗いものに、過去に支配されつづけますよ。啄木のように一人で抱え込み力を尽くしても、その自分が崩れてしまったとき、私たちは「やってられるかこんなばかばかしいこと」と、自分からも周りからも目を背けてしまうのです。
でも私達は私達の目を向けるべき方向を神から知らされています。

イスラエルの民は500年、待っても待っても約束された救い主を見ることはできませんでした。時々「我こそは救い主だ」と自称する者が現れて、一時勢いを得てもすぐにつぶされてしまいました。そういう意味でも希望が膨らんではついえるという体験を繰り返してきたのです。しかしそれらのことがまさにイスラエルの人たちの心を鍛えていきました。それが最終的にイエス様の誕生を準備する苗床へとなっていったのです。
もちろんイエス様が来られてもイスラエルの人々はイエス様を歓迎したわけではなく、異邦人にそれが伝えられて、イスラエルの人たちに嫉妬心をおこさせてということを2000年も続けているのです。それが神様の救いのご計画なのです。神の救いの業を世界に広げていくためにイスラエルの民、ユダヤ人たちはそのような中に今も置かれているのです。

私達は日々の生活の中で神の御言葉をどのようなものとして聞いているでしょうか。
私を解放し、私を通して周りを解放していく言葉として見ているかなと思うのです。
しかしこの聖書は間違いなく貧しいものへの福音であります。
私への福音として届いたものが、今度は私の周りにいる苦しんでおられる人、痛んでおられる人に届けられる、そのようにして聖書、福音は完成していくのかもしれません。私一人の中だけではそれは満たされない。
痛みながら周りの人に関わって行く中で神が私達をどのようにして回復させようとしておられるのか知ることができるのかもしれません。
私達の目を神の方に向けていきましょう。
私達はただ自分の手を見、過去を見、ああ駄目だと思ってしまうわけですけど、そんな時だからこそ、美しいものを、真に美しいもの―それは神以外にありません―に目を向けていきましょう。
神の御言葉へと心新たに戻っていきたいものであります。



2018年10月7日

宣教「幸いを選ぼう」

詩編 1編1~6節


聖書箇所

1:1いかに幸いなことか
  神に逆らう者の計らいに従って歩まず
  罪ある者の道にとどまらず
  傲慢な者と共に座らず
1:2主の教えを愛し
  その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3その人は流れのほとりに植えられた木。
  ときが巡りくれば実を結び
  葉もしおれることがない。
  その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
 1:4神に逆らう者はそうではない。
  彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
 1:5神に逆らう者は裁きに堪えず
  罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
 1:6神に従う人の道を主は知っていてくださる。
  神に逆らう者の道は滅びに至る。


メッセージの要約

今日から詩編を読んでまいります。
どうして聖書に「詩」というものがあるのでしょうか。
読んでみると「詩」でもありますし「祈り」のようでもあります。
実際この詩編は様々な場面で神に祈りを捧げるときに口ずさんでいたわけです。たとえば詩編の中には「都もうでの詩」と題されているものがありますが、それはイスラエルの人々が過ぎ越しの祭りのとき、様々な地方からエルサレムに集まってくるときに歩きながら口ずさんだものです。ユダヤ教のシナゴーグにおける礼拝の中においても中心はこの詩編の言葉でした。また何より詩編で思い出されるのはイエス様が十字架の上で最後に語られた詩編22編の言葉「我が神、我が神なぜ私をお見捨てになるのか」でしょう。そして新約聖書において用いられている旧約聖書からの引用で一番多いのもこの詩編です。
クリスチャンになった人たちの生活の中にこの詩編がいかに根付いていたかが想像されます。
今日の箇所、詩編1編は150編あるうちのひとつということではありません。詩編が編纂された中で冒頭に何を置くかを考えたすえ、この詩編を第1編に置くことを決めたのです。詩編が編纂されたのは紀元前6世紀~4世紀の間と言われています。それまでも詩編は人々によって口ずさまれていたわけですが、それを人々が散らされていった先で礼拝するために編纂されたのですが、それがその頃ということです。1編は詩編を編纂した人たちがイスラエルの民がそれまで歩んだ歴史の中から、つまり成功も失敗も経験した中から得られた英知の頂点ともいえる言葉なのです。
「いいか、神に逆らう者はほろびるのだぞ、だからみ言葉を口ずさむんだ」と言っているわけではないのです。編纂されるまでにイスラエルの民は苦難を受けました。なんと言っても、国を失い、捕囚として他国に連れていかれることを経験したのです。そのあとギリシア人がやって来て、さらにローマからの迫害にも遭いました。キリスト教がローマに公認さえてからはキリスト教徒のユダヤ教徒への迫害が始まりました。「あいつらがキリストを殺したんだ」ということで。しかし、どんな状況においてもこの1編のように神の言葉を口ずさむことを手放さないことをユダヤ人は選んだのです。もちろん旧約聖書を引き継いだキリスト教徒も同じでした。聖書の神への信仰を選び取った人々は詩編を口ずさむことをやめなかったのです。

ここで言う「幸いな人」とはどういう人なのでしょう。
何不自由ない順風満帆な人生を生きている人ではなく、旧約聖書でいうならば、ダビデのように逆境や誘惑にさいなまれ苦しんでいる人を言うのです。病気もない、仕事もある、家族も人間関係も良好、未来に何の不安もない人が幸いな人と思いがちですが、聖書がいう幸いな人とは絶望的な状況の中でも神の言葉を手放さない人のことを言うのです。なぜなら神の言葉を手放さないということは神の命に触れている人、神につながっている人だからです。その人は時が巡り来れば実を結びしおれることがない。人が考え及ばないような恵みの中を歩まされるからだと約束されているからです。そういうと苦難はいっときでそれを堪え忍べばまた幸せがくると思う人がいるかもしれませんがそれはまた違います。たとえこの地上で、望んだことを何一つ得られなかったとしても幸いだということなのです。
私達は何かを信じるためには将来に何か良いことがやくそくされていなければ信じられないと思っているところがないでしょうか。御利益宗教と言われるものはそのようなことで満ちています。
目の前に火のついた炭が敷き詰められている道があって、それを渡ることができたら、病がいやされるとかのたぐいです。しかし信仰とはそういうものではありません。色々な意味で自分自身の不信仰と自分の弱さを思い知らされる中で神にすがりつく、それこそが私達にとって信仰とよばれるものだということを心に刻みつけなければなりません。
マルコによる福音書で「汚れた霊に取り憑かれた子をいやす」というタイトルのところで父親はイエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と頼みます。それに対してイエスは「できれば」というのか。「信じる者には何でもできる」と答えられます。その子の父親はすぐに叫んで言うのです。「信じます。信仰のない私をお助けください」と。様々な試練にあったときに、私は100パーセント信じますと言える人はいないのです。神様と取引してみたり、例えば治ったらこうしますからとか、また逆にこうならないのは私の信仰がないからだと言ってみたりするわけです。
私達に必要なことは「不信仰な私を許してください。主よ信じさせてください」ということだけです。
想像を超える苦難と試練の中で縋りつくように神に求め訴えた人々の長い長い歴史から生まれた祈りと言えるものなのです。

私達はなぜ祈るのか。それは祈ることを通して神と会話できるからです。会話をするということは相手がいるということなのです。神は目に見えない、触れることはできないけれど、み言葉を通して神と会話していくときに、神と本当の意味で出会っていったのです。そういうリアルティーがあるからこそ詩編はこうして残されているし、ユダヤ人と私達の毎日の支えになっているのです。
幸いな人とは順風満帆な人ではなくて、苦難の中を歩いているけれども自分は一人ではないということを覚えることができる人なのです。神の中に立ち続けるために詩編を口ずさむ、口ずさむことそのものが祈りなのです。
詩編の中には人を呪うような詩編も存在します。それでも神に向けられるときに祈りなのです。私達は人を憎まずにはいられない時もありますよ。そういう時のためにこの詩編はあるのです。イエスご自身が、なぜ神よ私を捨てられるのですかと祈ったのですから、神が私を見捨てたのではないかと思うときにも、イスラエルの人が神に呼びかけることを選び取ったということを忘れないでいたいと思います。
神は私達に神を呪って神を捨て去るという道を選ぶこともできるように自由を与えてくださったけれど、その自由を見なんはどう使われますか。幸いを選びとる人になりましょう。私達がその道を選ぶときに周りの方もそういう人生があるのだと気づいて行かれるのではないでしょうか。証とはそういうものです。
こんな悲惨な中で、なんで神を信じられるのかという状況の中で、神様を選びとって神がくださる幸いを生きようとする、それこそが私達の伝道であります。
お祈りいたしましょう。



2018年6月26日

宣教「私の冠」

コリント信徒への手紙Ⅱ 2章14節~3章6節


聖書箇所

2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

 2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

 2:17 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

 3:1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。

 3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。

 3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

 3:4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。

 3:5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。

 3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。


メッセージの要約

今日の箇所のはじめに「神に感謝します」とパウロが言っています。なぜ唐突にここにこの言葉が出てきたのでしょう。パウロは明らかに安堵しているのです。

それは彼が先に書いたコリント信徒への手紙Ⅰをコリントの人たちがそのままに受け入れて、パウロが語っていた方向へと人々が歩みはじめたからです。パウロはコリント信徒への手紙Ⅱの2:4で「わたしは、悩みとうれいに満ちた心で、涙ながらにこの手紙を書きました。」と言っています。手紙Ⅰが悲しみの手紙と言われるゆえんです。

コリントから来た人々からもたらされる状況は大変なものでした。その惨状はどの一つをとっても大変な内容でした。それを聞いて、パウロは問題を指摘し、はっきりと改めるように厳しい口調でコリントの信徒への手紙Ⅰを書いています。

参照:手紙Ⅰ1:11「実はあなたがたの間で争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい私はパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているということです。」「パウロは本当の使徒ではない、エルサレム教会からの推薦状もないし」と言って、パウロの正当性を認めない人達も沢山いたわけです。

手紙Ⅰ3:3では「お互いの中にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる」というようなことが起こっているとしたらそれは本当に教会と言えるのかということになりますよね。

手紙Ⅰ 5:1「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものにしているということです」コリント風の生き方というのは性的なみだれを意味していたのですが、それが教会の中にも持ち込まれていたということです。

また手紙Ⅰ 6:1「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴えでるようなことをなぜするのですか」とあるように教会の中での争いを教会とは何の関わりのない人々のところに持っていってしまっているというようなことも起こっていました。

手紙Ⅰ 11章、教会で出された食事を先に来た人が食べてしまい、後に来た人の分が何も残っていないというようなことも書かれています。

さらに手紙Ⅰ 15:12には「キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あたながたの中のある者が、死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか」ともあります。死者の復活などないと言っている人が教会の中にもいたということです。

このように実際の生活から信仰の問題まで、ありとあらゆる問題がこのコリントの教会の中で起こっていたのです。それらをパウロは幾人もの人たちから聞いたのです。コリントの教会をどうすればよい方向へ向けなおすことができるのか。パウロは主に祈りつつ懸命に思案に試案を重ねたと思います。パウロは自分が彼らのもとにたどり着いた時を思い返しました。その時パウロはアテネでの失敗を引きずっていて憔悴しきっていました。しかしコリントの人たちはパウロが堂々と力強く威厳をもって語っていたから信じたのでなく、本当に見る影もないような弱々しいパウロから聞いて沢山の人が信じるということが起ったのでした。「なのになぜ?」そのことを思うにつけ、パウロのうちに悲しみが満ちていったに違いありません。

コリントの信徒への手紙Ⅰは厳しい言葉で満ちています。しかしパウロはそれを涙ながらに書いたのです。

 

実はこの手紙をコリントに届けたのはテモテであったと言われています。

コリント信徒への手紙Ⅱ 2:12で「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。」トロアスでパウロはテモテを待っていたのです。テモテに預けた手紙がコリントの人たちにどう受け取られるか心配で仕方なかった。しかしテモテが戻ってこないのでトロアスからマケドニアへと出発していったのです。

 

しかしここでパウロはやっとテモテから自分の書いた手紙がコリントの人たちの心を動かし、教会の中に悔い改めが起こったことを知らされて、やっと14節で「神に感謝します」と言っているのです。「神はわたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ・・・」パウロ自身もほんとに自分はキリストの勝利の行進の中にいるのだろうかと不安だったけれど、やっとここで書くことができたことを心から喜んでいます。

 

「わたしたちを通じて到るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」コリントの教会に再びキリストの香りが満ちていったのです。香りという風に目には見えないものに例えられていますが、それはリアリティーを持ち、人々を悔い改めに導いていくようなものだったのです。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りだと彼は言います。

パウロは福音が語られるときにそこには必然的に救いと滅びが起こることを知り抜いていたのです。教会ではなかなか滅びということは語りませんが、それは人間が管理することやコントロールすることはできないものなのです。パウロはそれを体験から知っていました。「滅びるものには死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」このような勤めに誰がふさわしいでしょうか。パウロは自分がふさわしいと言っているのではありません。その勤めはパウロにとっても怖ろしく、峻厳なものだったのです。2:17で「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」イザヤ書15:1にも「わたしの口からでるわたしの言葉もむなしくは、わたしのものとには戻らない」とあります。

先ほどもいいましたように、わたしたちは自分自身の中にそのような緊張感を持って臨んでいるのかどうか問わなければなりません。なぜならキリストが何のためにご自身の命を献げられたか、それは私や皆さん一人一人のために命を献げられたのです。私たちはその重さをどれほどまでに感じているでしょうか。

 

先ほど主の晩餐を受けましたが、「ふさわしくないままに主の体を食し」という言葉が必ず読まれます。この言葉を聞いたとき怯えない人はおられないと思います。でもそれは正しい怯えですよね。主の晩餐は誰でも預かってもいい。でもそれは誰でもそこに来れば自動的に預かれると思っていいものではありません。じゃあ自分はふさわしくなっているか、いえ、ふさわしい者は誰もいないのです。私たちは骨の随の随まで罪に満ちている。そう聞いて反発を感じませんか?わたしはそれほどではないと感じて当たり前です。それが罪なのですから。そうやって罪から顔を背けることがわたしたちのやってきたことなのです。だからそういう自分だと認識しなさいということなのです。だからこそあなたたちにはイエスキリストの流された血と体が必要なのだということです。

わたしたちはキリストを受け入れたといいながら心の奥底では依然抵抗しているものです。そういう手強いわたしたちをどうすればいいかと神はお悩みになったのです。

 

「あなたがたはキリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き付けられた手紙です」石の板とはシナイ山でモーセに与えられた十戒のことを言っています。それは見えるものだったし、手でも触れるものでした。だれにでも読めばわかるものだったのに、その律法が人間を罪に誘い込んでいったのです。ローマ書に書いてあるとおりです。それは人の罪が骨の髄までしみわたっているからです。キリストが命を献げられたのはそのようは私たちの現状があるからこそです。「私ってそんなに罪深いかな、それほどでもないと思うけど。」実感としてはそうだと思います。そう聞かされるとひるまれる方がいらっしゃるかもしれませんが、いま私たちの周りで起こっている現実は、私たちに自分の実感の甘さを厳しくついているように思います。そのような罪に染まっている私たちが神の前に立つとしたら、キリストによる以外にそれができる方は決してないのです。

供え物、香りの話がでてきましたが、香りというのは祭壇に献げられた犠牲の動物の焼かれるときの香りのことです。それは人々の罪を許すために献げられたもので、その香りが神をなだめるとされていたのです。私たちを裁かなければならない神を慰めるものとされていたのです。キリストがその犠牲の献げものとなって私たちを贖いとってくださったのです。それが私たちが宣べ伝えている福音であります。私たちは死んだら天国にいると思っているかもしれません。しかし教会はそんな安売りを今まで一度としてしたことはありません。

父なる神の前にそのままで立てる人など一人もいないのです。そういう私たちのためにキリストが死んで供え物となってくださったのです。だからこそ私たちは神の前に立つことができると言われているのです。すごいことです。わたしたちはそのような者とされたのです。自分自身の在りようと信仰を問わなければならないのです。それが問われない主の晩餐の与り方なんてありえないのです。

 

パウロにとってコリントの人たちは滅びの一歩手前まできていると見えたのではないかと思います。だからこそ涙を流して手紙を書いた。コリントの人たちはそれを受け入れてくれ、生き方を変える決断の中に歩みだしてくれたのです。

「心の板に書き付けられた手紙」とはどういうことでしょうか。それはわたしたちのうちにキリストが形をとってその印章が押されている、そのようなものなのです。心の板にキリストご自身が霊をもって書き付けられたのです。私たちはキリストが私たちを用いてお書きになった手紙なのです。手紙ですから宛先があるはずです。宛先はこの世です。この世とは私たちがいる家庭、職場、地域へ宛てられて送り出されている手紙なのです。これは大変な勤めを仰せつかったなとひるまれて当然です。でもコリントの人たちがいかに沢山の問題があってもキリストの手紙とされたなら、私たちも怖れないでいいのではないかなと思うのですが、皆さんいかがでしょうか。

お祈りいたします。